E隈《かいわい》でも、最早《もう》真夜中で、塒《ねぐら》で鳴く鶏の声が近所から僅かに聞えて来ていた。家でも皆寝てしまったらしい。そう思いながら、岸本は門の戸を叩《たた》いた。
「叔父さんですか」
という節子の声がして、やがて戸の掛金を内からはずしてくれる音のする頃は、まだ岸本は酒の酔が醒《さ》めなかった。
「まあ、叔父さんにはめずらしい」
と節子は驚いたように叔父を見て言った。
岸本は自分の部屋へ行ってからも、胸の中に湧《わ》き上って来る感動を制《おさ》えることが出来なかった。丁度節子は酔っている叔父のために冷水《おひや》を用意して来た。岸本は何事《なんに》も知らずにいる姪にまで自分の心持を分けずにいられなかった。
「可哀そうな娘だなあ」
思わずそれを言って、彼ゆえに傷ついた小鳥のような節子を堅く抱きしめた。
「好い事がある。まあ明日話して聞かせる」
その岸本の言葉を聞くと、節子は何がなしに胸が込上《こみあ》げて来たという風で、しばらく壁の側に顔を押えながら立っていた。とめども無く流れて来るような彼女の暗い涙は酔っている岸本の耳にも聞えた。
二十九
朝が来て見ると、平素《ふだん》はそれほど気もつかずにいた書斎の内の汚《よご》れが酷《ひど》く岸本の眼についた。彼は長く労作の場所とした二階の部屋を歩いて見た。何一つとしてそこには澱《よど》み果てていないものは無かった。多年彼が志した学芸そのものすら荒れ廃《すた》れた。書棚《しょだな》の戸を開けて見た。そこには半年の余も溜《たま》った塵埃《ほこり》が書籍という書籍を埋めていた。壁の側に立って見た。そこには血が滲《にじ》んでいるかと思われるほど見まもり疲れた冷たさ、恐ろしさのみが残っていた。
遠い外国の旅――どうやらこの沈滞の底から自分を救い出せそうな一筋の細道が一層ハッキリと岸本に見えて来た。何よりも先《ま》ず彼は力を掴《つか》もうとした。あの情人の夫を殺すつもりで過《あやま》って情人を殺してまでも猶《なお》かつ生きることの出来たという文覚上人《もんがくしょうにん》のような昔の坊さんの生涯の不思議を考えた。そこからもっと自己を強くすることを学ぼうとした。一歩《ひとあし》も自分の国から外へ踏出したことの無い岸本のようなものに取っては、遠い旅の思立ちはなかなか容易でなかった。七年ばかり暮しつづ
前へ
次へ
全377ページ中48ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング