二十七

 節子が何事《なんに》も知らずに二階へ上って来た頃は、日は既に暮れていた。彼女は使の持って来た手紙を叔父に渡した。それを受取って見て、岸本は元園町の友人が復た手紙と一緒にわざわざ迎えの俥《くるま》までも寄《よこ》してくれたことを知った。
 友人を見たいと思う心が岸本には動かないではなかった。しかしその心からと言うよりも、むしろ彼は半分器械のように動いた。元園町の手紙を読むと直ぐ楼梯《はしごだん》を降りて、そこそこに外出する支度《したく》した。
 暗い門の外には母衣《ほろ》の掛った一台の俥が岸本を待っていた。節子に留守を頼んで置いて、ぶらりと岸本は家を出た。別れを友人に告げに行くつもりでは無いまでも、実際どう成ってしまうか解らないような暗い不安な心持で、彼はその俥に乗った。そして地を踏んで行く車夫の足音や、時々車夫の鳴らす鈴の音や、橋の上へさしかかる度《たび》に特に響ける車輪の音を母衣の内で聞いて行った。大きな都会の夜らしい町々の灯が母衣の硝子《ガラス》に映ったり消えたりした。幾つとなく橋を渡る音もした。彼はめったに行かない町の方へ揺られて行くことを感じた。
 元園町の友人は一人の客と一緒に、岸本の知らない家で彼を待受けていた。そこには電燈のかがやきがあった。酒の香気《におい》も座敷に満ちていた。岸本のために膳部《ぜんぶ》までが既に用意して置いてあった。元園町は客を相手に、さかんに談《はな》したり飲んだりしているところであった。
「岸本君、今夜は大いに飲もうじゃ有りませんか」
 と元園町が眉《まゆ》をあげて言った。岸本は元園町から差された盃《さかずき》を受ける間もなく、日頃懇意にする客の方からも盃を受けた。
「今夜は岸本さんを一つ酔わせなければいけない」
 とその客も言って、復た岸本の方へ別の盃を差した。
「ねえ、君」と元園町は客の方を見ながら、「僕なぞが、どれほど岸本君を思っているか、それを岸本君は知らないでいる」
「まあ、一つ頂きましょう」と客は岸本からの返盃《へんぱい》を催促するように言った。
 耳に聞く友人等の笑声、眼に見る華《はな》やかな電燈の灯影《ほかげ》は、それらのものは岸本が心中の悲痛と混合《まざりあ》った。彼は楽しい酒の香気を嗅《か》ぎながら、車の上でそこまで震えてやって来た彼自身のすがたを思って見た。節子と彼と、二人の
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