ェある。彼もまだ極《ごく》若いさかりの年頃であった。止《や》み難い精神《こころ》の動揺から、一年ばかりも流浪を続けた揚句、彼の旅する道はその海岸の波打際《なみうちぎわ》へ行って尽きてしまった。その時の彼は一日食わず飲まずであった。一銭の路用も有《も》たなかった。身には法衣《ころも》に似て法衣でないようなものを着ていた。それに、尻端折《しりはしおり》、脚絆《きゃはん》、草鞋穿《わらじばき》という異様な姿をしていた。頭は坊主に剃《そ》っていた。その時の心の経験の記憶が復《ま》た実際に岸本の身に還《かえ》って来た。曾《かつ》て彼の眼に映った暗い波のかわりに、今は四つ並んだ墓が彼の眼にある。曾て彼の眼に映ったものは実際に彼の方へ押寄せて来た日暮方の海の波であって、今彼の眼にあるものは幻の墓ではあるけれども、その冷たさに於《お》いては幻はむしろ真実に勝《まさ》っていた。三年も彼が見つめて来た四つの墓は、さながら暗夜の実在のようにして彼の眼にあった。岸本園子の墓。同じく富子の墓。同じく菊子の墓。同じく幹子の墓。彼はその四つの墓銘をありありと読み得るばかりでなく、どうかすると妻の園子の啜泣《すすりな》くような声をさえ聞いた。それは彼が自分の乱れた頭脳《あたま》の内部《なか》で聞く声なのか、節子の居る下座敷の方から聞えて来る声なのか、それとも何か他の声なのか、いずれとも彼には言うことが出来なかった。その幻の墓が見えるところまで堕《お》ちて行く前には、彼は恥ずべき自己《おのれ》を一切の知人や親戚《しんせき》の眼から隠すために種々な遁路《にげみち》を考えて見ないでもなかった。知らない人ばかりの遠い島もその一つであった。訪れる人もすくない寂しい寺院《おてら》もその一つであった。しかし、そうした遁路を見つけるには彼は余りに重荷を背負っていた。余りに疲れていた。余りに自己を羞《は》じていた。彼は四つ並んだ幻の墓の方へ否《いや》でも応でも一歩ずつ近づいて行くの外はなかった。
 一日は空《むな》しく暮れて行った。夕日は二階の部屋に満ちて来た。壁も、障子も、硝子戸《ガラスど》も、何もかも深い色に輝いて来た。岸本の心は実に暗かった。日頃《ひごろ》彼の気質として、心を決することは行うことに等しかった。泉太、繁の兄弟の子供の声も最早彼の耳には入らなかった。唯《ただ》、心を決することのみが彼を待っていた。

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