ン本は言って、もしもの場合には自分の庶子《しょし》として届けても可いというようなことを節子に話した。
「庶子ですか」
と節子はすこし顔を紅《あか》めた。
不幸な姪《めい》を慰めるために、岸本はそんな将来の戸籍のことなぞまで言出したもののその戸籍面の母親の名は――そこまで押詰めて考えて行くと到底そんなことは行われそうも無かった。これから幾月の間、いかに彼女を保護し、いかに彼女を安全な位置に置き得るであろうか。つくづく彼は節子の思い悩んでいることが、彼女に取っての致命傷にも等しいことを感じた。
岸本は町へ出て行った。節子のために女の血を温め調《ととの》えるという煎《せん》じ薬を買求めて来た。
「もっとお前も自分の身体《からだ》を大切にしなくちゃいけないよ」
と言って、その薬の袋を節子に渡してやった。
夜が来た。岸本は自分の書斎へ上って行って、独《ひと》りで机に対《むか》って見た。あの河岸《かし》に流れ着いた若い女の死体のことなぞが妙に意地悪く彼の胸に浮んで来た。
「節ちゃんはああいう人だから、ひょっとすると死ぬかも知れない」
この考えほど岸本の心を暗くするものは無かった。妻の園子を失った後二度と同じような結婚生活を繰返すまいと思っていた彼は、出来ることなら全く新規な生涯を始めたいと願っていた彼は、独身そのものを異性に対する一種の復讎《ふくしゅう》とまで考えていた彼は、日頃|煩《わずら》わしく思う女のために――しかも一人の小さな姪のために、こうした暗いところへ落ちて行く自分の運命を実に心外にも腹立しくも思った。
思いもよらない悲しい思想《かんがえ》があだかも閃光《せんこう》のように岸本の頭脳《あたま》の内部《なか》を通過ぎた。彼は我と我身を殺すことによって、犯した罪を謝し、後事を節子の両親にでも托《たく》そうかと考えるように成った。近い血族の結婚が法律の禁ずるところであるばかりで無く、もしもこうした自分の行いが猶《なお》かつそれに触れるようなものであるならば、彼は進んで処罰を受けたいとさえ考えた。何故というに、彼は世の多くの罪人が、無慈悲な社会の嘲笑《ちょうしょう》の石に打たるるよりも、むしろ冷やかに厳粛《おごそか》な法律の鞭《むち》を甘受しようとする、その傷《いた》ましい心持に同感することが出来たからである。部屋には青い蓋《かさ》の洋燈《ランプ》がしょんぼ
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