ヲた夫を待っている岸本の姉が居た。太一の妹が居た。岸本が三番目の男の児はその姉の家に托してあった。
 節子のことを案じ煩《わずら》いながら、岸本はポツポツ鈴木の兄の話すことを聞いた。台湾地方の熱い日に焼けて来た流浪者を前に置いて、岸本はまだこの人が大蔵省の官吏であった頃の立派な威厳のあった風采《ふうさい》を思出すことが出来る。岸本が少年の頃に流行した猟虎《らっこ》の帽子なぞを冠《かぶ》ったこの人の紳士らしい風采を思出すことが出来る。彼が九つの歳《とし》に東京へ出て来た時、初めて身を寄せたのはこの人の家であって、よくこの人から漢籍の素読なぞを受けた幼い日のことを思出すことが出来る。岸本がこの人と姉との側に少年の時代を送ったのは一年ばかりに過ぎなかったが、しかしその間に受けた愛情は幼い彼の心に深く刻みつけられていた。それからずっと後になって、この人の身の上には種々《さまざま》な変化が起り、その行いには烈《はげ》しい非難を受けるような事も多かった。そういう中でも、猶《なお》岸本が周囲の人のようにはこの人を考えていなかったというのは、全く彼が少年の時に受けた温い深切《しんせつ》の為で――丁度、それが一点のかすかな燈火《ともしび》のように彼の心の奥に燃えていたからであった。
 岸本は七日ばかりもこの旅の人を自分の許に逗留《とうりゅう》させて置いた。その七日の後には、この落魄《らくはく》した太一の父親を救おうと決心した。
「節ちゃん、叔父さんは鈴木の兄さんを連れて、国の方へ御辞儀に行って来るよ」
 岸本はその話をした後で、別に彼の留守中に医師の診察を受けるようにと節子に勧めた。節子はその時の叔父の言葉に同意した。彼女自身も一度|診《み》て貰いたいと言った。幸に彼女の思違いであったなら。岸本はそんな覚束《おぼつか》ないことにも万一の望みをかけ、そこそこに旅の仕度《したく》して、節子に二三日の留守を頼んで置いて行った。

        二十四

 実に急激に、岸本の心は暗くなって行った。郷里の方にある姉の家から帰って来る途中にも、彼は節子に言置いたことを頼みにして、どれ程《ほど》医師の言葉に万一の希望を繋《つな》いだか知れなかった。引返して来て見ると、余計に彼は落胆した。
「節ちゃん、そんなに心配しないでも可《い》いよ。何とか好いように叔父さんが考えて進《あ》げるからね」
 こう
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