ニいう風で、遠慮勝ちに下座敷へ通った。
「台湾の兄貴の方から御噂はよく聞いておりました」
こう言って迎える岸本をも鈴木の兄は気味悪そうにして、何を義理ある弟から言出されるかという様子をしていた。
「泉ちゃん、お出《いで》。鈴木の伯父《おじ》さんに御辞儀するんだよ」と岸本がそこに居る子供を呼んだ。
「これが泉ちゃんですか」と言って子供の方を見る客の顔には漸《ようや》く以前の旧《ふる》い鈴木の家の主人公らしい微笑《えみ》が浮んだ。
「伯父さん、いらっしゃいまし」と節子もそこへ来て挨拶《あいさつ》した。
「節ちゃんか。どうも見違えるほど大きくなりましたね。幼顔《おさながお》が僅《わず》かに残っているぐらいのもので――」と鈴木の兄に言われて、節子はすこし顔を紅《あか》めた。
「私の家でもお園が亡くなりましてね」と岸本が言った。「あなたの御馴染《おなじみ》の子供は三人とも亡くなってしまいました。一頃《ひところ》は輝も居て手伝ってくれましたが、あの人もお嫁に行きましてね、今では節ちゃんが子供の世話をしていてくれます」
「お園さんのお亡くなりに成ったことは、台湾の方で聞きました……民助君には彼方《あちら》で大分御世話に成りました……捨さんのことも、民助君からよく聞きました……何しろ私も年は取りますし、身体も弱って来ましたし、捨さんに御相談して頂くつもりで実は台湾の方から帰って参りました……」
二十三
「節ちゃん、鈴木の兄さんは袷《あわせ》を着ていらっしゃるようだぜ。叔父さんの綿入を出してお上げ。序《ついで》に、羽織も出して上げたら可《よ》かろう」
こう岸本は節子を呼んで言って、十年振りで旅から帰って来た人のために夕飯の仕度《したく》をさせた。よくよく困った揚句《あげく》に義理ある弟の家をめがけて遠く辿《たど》り着いたような鈴木の兄の相談を聞くのは後廻しとして、ともかくも岸本は疲れた旅の人を休ませようとした。しばらく家に泊めて置いて、その人の様子を見ようとした。十年の月日は岸本の生活を変えたばかりでなく、太一の父親が家出をした後の旧《ふる》い大きな鈴木の家をも変えた。そこには最早《もう》岸本の甥でもあり友人でもあり話相手ででもあった太一は居なかった。太一の細君も居なかった。そこには倒れかけた鈴木の家を興《おこ》した養子が居た。養子の細君が居た。十年も消息の絶
前へ
次へ
全377ページ中39ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング