ヲた。
「まあ、坊ちゃん方は何を喧嘩なすったんです」
と言って、婆やがそこへ飛んで来た頃は、まだ二人の子供は泣きじゃくりを吐《つ》いていた。
岸本は胸を踊らせながら自分の部屋へ引返して行った。硝子戸《ガラスど》に近く行って日暮時の町を眺《なが》めた。河岸の砂揚場のところを通って誘われて来た心持が岸本の胸を往来し始めた。彼はあの水辺《みずべ》の悲劇を節子に結びつけて考えることすら恐ろしく思った。冷い、かすかな戦慄《みぶるい》は人知れず彼の身を伝うように流れた。
二十二
七日ばかりも岸本はろくろく眠らなかった。独《ひと》りで心配した。昼の食事の時だけは彼は家のものと一緒でなしに、独りで膳《ぜん》に対《むか》うことが多かったが、そういう時には極《きま》りで節子が膳の側へ来て坐った。彼女はめったに叔父の給仕の役を婆やに任せなかった。それを自分でした。そして俯向《うつむ》き勝ちに帯の間へ手を差入れ、叔父と眼を見合せることを避けよう避けようとしているような場合でも、何時でも彼女の膝《ひざ》は叔父の方へ向いていた。晩《おそ》かれ早かれ破裂を見ないでは止《や》まないような前途の不安が二人を支配した。岸本は膳を前にして、黙って節子と対い合うことが多かった。
「叔父さん、めずらしいお客さまがいらっしゃいましたよ」
と楼梯《はしごだん》の下から呼ぶ節子の声を聞きつけた時は、岸本は自分の書斎に居た。客のある度《たび》に彼は胸を騒がせた。その度に、節子を隠そうとする心が何よりも先に起《おこ》って来た。
丁度町でも家の内でもそろそろ燈火《あかり》の点《つ》く頃であった。岸本は階下《した》へ降りて行って見た。十年も彼のところへは消息の絶えていた鈴木の兄が、彼から言えば郷里の方にある実の姉の夫にあたる人が、人目を憚《はばか》るような落魄《らくはく》した姿をして、薄暗い庭先の八ツ手の側に立っていた。
岸本はこの珍客が火点《ひとも》し頃《ごろ》を選んでこっそりと訪《たず》ねて来た意味を直《す》ぐに読んだ。傷《いた》ましい旅窶《たびやつ》れのしたその様子で。手にした風呂敷包と古びた帽子とで。十年も前に見た鈴木の兄に比べると、旅で年とったその容貌《おもばせ》で。この人が亡くなった甥《おい》の太一の父親であった。
妻子を捨てて家出をした鈴木の兄は岸本の思惑《おもわく》を憚る
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