闢_《とも》っていた。その油の尽きかけて来た燈火《ともしび》は夜の深いことを告げた。岸本は自分の寝床を壁に近く敷いて、その上に独りで坐って見た。一晩寝て起きて見たら、またどうかいう日が来るか、と不図《ふと》思い直した。考え疲れて床の上に腕組みしていた岸本は倒れるように深い眠の底へ落ちて行った。

        二十五

「父さん」
 繁は岸本の枕頭《まくらもと》へ来て、子供らしい声で父を呼起そうとした。岸本は何時間眠ったかをもよく知らなかった。子供が婆やと一緒に二階へ上って来た頃は、眼は覚《さ》めていたが、いくら寝ても寝ても寝足りないように疲れていた。彼は子供の呼声を聞いて、寝床を離れる気になった。
「繁ちゃん、父さんは独りじゃ起きられない。お前も一つ手伝っておくれ。父さんの頭を持上げて見ておくれ」
 と岸本に言われて、繁は喜びながら両手を父の頭の下に差入れた。
「坊ちゃん、父さんを起してお進《あ》げなさい――ほんとに坊ちゃんは力があるから」
 と婆やにまで言われて、繁は倒れた木の幹でも起すように父の体躯《からだ》を背後《うしろ》の方から支《ささ》えた。
「どっこいしょ」
 と繁が力を入れて言った。岸本はこの幼少《ちいさ》な子供の力を借りて漸《ようや》くのことで身を起した。
「旦那《だんな》さん、もう十一時でございますよ」と婆やはすこし呆《あき》れたように岸本の方を見て言った。
「や、どうも難有《ありがと》う。繁ちゃんの御蔭《おかげ》で漸《ようや》く起きられた」
 こう言いながら、岸本は悪い夢にでも襲われたように自分の周囲を見廻した。
 太陽は昨日と同じように照っていた。町の響は昨日と同じように部屋の障子に伝わって来ていた。眼が覚めて見ると昨日と同じ心持が岸本には続いていた。昨日より吉《い》いという日は別に来なかった。熱い茶を啜《すす》った後のいくらかハッキリとした心持で彼は自分の机に対って見た。
 最近に筆を執り始めた草稿が岸本の机の上に置いてあった。それは自伝の一部とも言うべきものであった。彼の少年時代から青年時代に入ろうとする頃のことが書きかけてあった。恐らく自分に取ってはこれが筆の執り納めであるかも知れない、そんな心持が乱れた彼の胸の中を支配するように成った。彼は机の前に静坐して、残すつもりもなくこの世に残して置いて行こうとする自分の書きかけの文章を読んで
前へ 次へ
全377ページ中42ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング