いたッて。どうせ義雄さんの方から節ちゃんの食い扶持《ぶち》が行く訳ではなかろうし、台湾の伯母さんから見れば厄介者《やっかいもの》が一人舞込むようなものだからねえ。男はそこへ行くと大ざッぱだが、女の人は細《こまか》いから。節ちゃんも居にくいようなことが有りゃしないかと思って、俺は心配して遣《や》るよ」
「それは節ちゃんも心配していましたよ」
「まあ書籍を上げるのは見合せよう。しばらく俺の方へ預かって置こう」
「でも、私はそう言伝かって来たんですもの」
「いや、節ちゃんにそう言っておくれ。しっかり台湾の伯母さんのお手伝いをしておくれッて」
こんな話をしているうちに、長いこと掛って自分の養い育てたものを根こそぎ持って行かれてしまうような悲哀《かなしみ》が強い力で岸本の心を圧して来た。
「ああああ――こんなに親戚があっても、俺の心を汲《く》んでくれるような人は居ないのか」
と言いながら岸本は起《た》って行って茶道具を持って来た。
「しかし、無理もないねえ。俺が何をして来たのか、どういう心持で居るのか、親戚は知らないんだからねえ――」と復《ま》た岸本は言って、熱い茶を輝子に振舞いながら言葉を継いだ。「仮令《たとえ》俺が何を書こうと、捨吉がこんな寝言を書いたかぐらいに思われれば、それまでだねえ。そうさなあ、俺の心を汲んで貰えそうな人は、お前の旦那《だんな》さんと田辺の弘さんとだ。お前に俺の心持は解《わか》らなくても、お前の旦那さんは解ってくれるだろうと思うよ――」
この岸本の言葉を聞いて、輝子は苦笑《にがわら》いしながら香ばしい茶のにおいを嗅《か》いでいた。
「どれ、婆やさんとも階下《した》で少しお話して」
と言って輝子は二階から降りて行った。
輝子が渋谷をさして帰った後、岸本は独りで新しい書斎を歩いて見た。その時になって見ると、眼に見えない鎖に繋《つな》がれていなければ成らないようなことも、こそこそ自分を隠さなければ成らないようなことも、そういうことは何も無かった。彼は自分が広々とした自由な世界に出て来たことを感ずるばかりでなく、節子にまでその時がやって来たことを心ひそかに想像して見た。彼女はもうそんなに遠かった。しかし又、そんなに近かった。
百四十
「わが心にあらず、御心《みこころ》のままに。
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