の出来るかと思われるような懐《なつ》かしい声であった。互に見ることの出来ない大きな扉の内と外とで別離《わかれ》を告げるような声であった。
「え――え――え」
混線した電話の雑音が途切れた後で、復た節子の声が彼の耳に伝わって来た。
「台湾の伯父さんにお前のことを頼んで置いた――これから先の方針の話でも出た時にだね、お前の意志だけは重んじるようにッて、俺《おれ》の方でよく頼んで置いた――無論それはお前の自由に任せるッて、返事をしてくれた――」
「え――台湾の伯父さんがそう言って下さいましたか――」と節子の声で。
周囲に人の出入《ではいり》のある電話口で、岸本はそれ以上の心を伝えることが出来なかった。誰が聞いても差支《さしつかえ》のないような、極くありふれた言葉に託して、言おうとしても言えない言葉を送るの外はなかった。
「今度お引越しになるお宅の番地を伺って置きましょう――」と節子の声で。「発《た》ちます前に、お届けしたいものが有りますからね――一寸《ちょっと》待って下さいね、伺ったお処《ところ》を書きつけますからね――」
しばらく岸本は電話口に立っていた。眼に見えないところで節子が手帳でも取出して、此方《こちら》から知らせる町名番地などを書取る光景《さま》が想像せられた。
「それから今度のお宅の御近所に電話がありましたら、その番号も伺って置きましょう――」と復た節子の声で。
「もうそれには及ぶまい」と岸本は返事をした。「ここでお別れとしよう――好い旅をして来て下さい――台湾の伯母さんの側へ行って、しっかりお手伝いをして来て下さい――頼みますぜ――そんなら、御機嫌《ごきげん》よう――」
「叔父さん――」
最後に岸本を探すような節子の声が聞えて来た。別離《わかれ》を惜んで立ち尽しているような節子も可哀そうに思い、岸本は一ト思いにその電話を切った。
百三十八
愛宕下の下宿から天文台の附近に見つけた住居《すまい》までは、谷底から岡の上へ通うほどの距離しかなかった。岸本は三人の子供と婆やとを引連れて、皆一緒に歩いて新しい家に移った。
漸《ようや》く岸本は自分の住居らしい住居に帰国後とかく定まらなかった書斎の置き場所を見つけることが出来た。そこから天文台の建築物《たてもの》は見えないまでも近い。何となく巴里《パリ》の天文台の近くに三年も暮して見た旅窓
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