そう暑くない。俺のように坐って仕事をするものには蚊に喰《く》われなくて可《い》い。外国なんかへ行って帰って来ると、こういう好いもののあることが分るね」
こんな話をして笑う間は、岸本は兄から絶交された身をも忘れて輝子と対《むか》い合っていることが出来た。しかし輝子の話が一度谷中の方の噂《うわさ》なぞに触れかけると、岸本は笑えなかった。
「こないだお父《とっ》さんが一ちゃんを連れて渋谷へ見えましたっけ」と輝子は言った。「その時も節ちゃんの話が出ましたっけ。お父さんが私に、『お前も愛宕下へは行くな――言うことを聞かないと、お前まで勘当してしまうぞ』ッて、そう言うんですよ。私は私で考えがありますし、叔母さんの生きていらっしゃる中《うち》からお世話に成っといてお訪《たず》ねもしないなんてことは私には出来ない。お父さんが何と言ったってそんなことは関《かま》いません」
「一体、お前は俺の懺悔《ざんげ》が出ない中から節ちゃんのことを知ってたろうか」
「知ってました。お母《っか》さんも知ってましたし、私も知ってました。ホラ、私は一度|浦潮《ウラジオ》から帰っていたことがありましょう。節ちゃんが何処かへ行っていたことがありましょう。ひょいと戸棚《とだな》かなんか開けて、お母さんの許《ところ》へ来た節ちゃんの手紙を見ちまいました。何かの用で、叔父さんのことが書いてありました。あの時、私は知りました。その前から節ちゃんの居るところを誰も私には教えないんでしょう――おかしい、おかしいと思っていたんですよ」
こうした話をするように成っただけでも、いくらか輝子の心は解けて来た。妹の節子が今の祖母さん似なら、姉の輝子の方は何処か岸本兄弟を生んだ母親に似たところがあった。岸本の母親が何時でも人と人との間の調和者としてあったように、輝子もまた調和者として叔父の許へ尋ねて来たような口吻《くちぶり》を見せた。
百三十
「節ちゃんも悪いと思いますよ――」と輝子が言い出した。「もうすこし祖母さんやお父さんに済まなかったと思うと可《い》いんですけれど、ちっともそんな様子を見せないんですもの。何ですか、自分じゃ立派なことでもしてるような顔付をして、すこしも祖母さんやお父さんに悪かったとは思っていないようなんですもの――」
それを聞いて、岸本は節子のために何か言って見ようとしたが、「そりゃ
前へ
次へ
全377ページ中359ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング