。彼女はまた、今後お目に掛れるのは何時《いつ》のことか、何年の後かと書いてよこした。その時になって叔父さんに自分を見て貰うのが何よりの楽しみだと書いてよこした。自分は毎日神に祈るようになったと書いてよこした。

        百二十二

「お節さんはどうなすったんですか。この節はさっぱりお見えに成りませんねえ」
 母屋《おもや》の台所の方から膳《ぜん》を運んで来た女中がそれを岸本に言った。丁度昼飯時で、三人の子供は学校の方へ弁当を持って行っていた。女中は岸本の膳だけを離座敷《はなれ》に置いて、
「お子さん方の着物の綻《ほころ》びでもありましたら、ずんずんお出しなすって下さい。手はいくらも御座いますから」
 という言葉を残して置いて母屋の方へ引返して行った。
 岸本に取っては帰国当時の季節を思い出させるような七月らしい雨の来た日であった。その時になって見ると、彼はこの下宿に一番長く泊っている客で、一年ばかり離座敷で暮すうちには女中等の顔までも変って来た。例のように彼は部屋の茶戸棚《ちゃとだな》の側に陣取って膳に対《むか》って見た。懺悔《ざんげ》を書き始めてから以来《このかた》閉居する身には庭の草木も眼についた。夏らしい涼しい雨は開けひろげた障子の外に見える青桐《あおぎり》の幹をも伝って流れていた。縁先に立つ古く細い松の根、苔《こけ》の生《は》えた庭石、青々とした笹《ささ》の葉、皆|濡《ぬ》れて見えた。彼は飯櫃《めしびつ》を自分の方へ引寄せて、手盛りでノンキにやった。その部屋から雨を眺《なが》めながら独りで飯を食った。
 節子がこの下宿へ仕事の手伝いに通って来た日のことは、最早静かなところで想い起して見る昨日のことであった。岸本は未だこの庭へ鶯《うぐいす》が来てさかんに鳴いていた頃に節子が一度病院から訪《たず》ねて来たことを想い出し、嫂《あによめ》が亡《な》くなってから十日ばかり経《た》った頃に彼女がひどく疲れてやって来たことをも想い出した。四月の末には彼女はリリスの花を一鉢《ひとはち》持って来て置いて行ったこともあった。五月に入っても未だ彼女は通って来ていて、その月の末までは顔を見せた。ほんとに好い事があるから頼みつけの米屋へ電話を掛けてくれ、そうしたらお伺いする、何も何もお目に掛った上でという意味の手紙をよこした翌日、彼女はやって来た。彼女のいう「ほんとに好い事」
前へ 次へ
全377ページ中349ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング