オって……」と年嵩な女中は言いかけたが、急に気を変えて、「まあ、殿方のことばかり申上げて相済みません」
そう言いながら女中は自分の膝《ひざ》の上に手を置いて御辞儀した。
「歌の一つも聞かせて下さい」
と岸本は言出した。すこしの酒が直《す》ぐに顔へ発しる方の彼も、その日は毎時《いつも》のように酔わなかった。
十九
生きたいと思う心を岸本に起させるものは、不思議にも俗謡を聞く時であった。酒の興を添えにその二階座敷へ来ていた女の一人は、日頃岸本が上方唄《かみがたうた》なぞの好きなことを知っていて、古い、沈んだ、陰気なほど静かな三味線《しゃみせん》の調子に合せて歌った。
「心づくしのナ
この年月《としつき》を、
いつか思ひの
はるゝやと、
心ひとつに
あきらめん――
よしや世の中」
いかなる人に聞かせるために、いかなる人の原作したものとも知れないような古い唄《うた》の文句が、熟した李《すもも》のように色の褪《さ》め変った女の口唇《くちびる》から流れて来た。
「みじか夜の
ゆめはあやなし、
そのうつり香の
悪《に》くて手折《たを》ろか
ぬしなきはなを、
何のさら/\/\、
更に恋は曲者《くせもの》」
元園町の友人の側に居て、この唄を聞いていると、情慾のために苦み悩んだような男や女のことがそれからそれと岸本の胸に引出されて行った。
「元園町の先生は好い顔色におなんなすった」と年嵩《としかさ》の方の女中が言った。
「君の酒は好い酒だ」と岸本も友人の方を見た。
「岸本先生は真実《ほんと》に御酔いなすったということが御有んなさらないでしょう」と髪の薄い女中は二人の客の顔を見比べて、「先生のは御酒もそう召上らず、御遊びもなさらず、まさか先生だって女嫌《おんなぎら》いだという訳でもございますまいが――」
「先生は若い姉さん達を並べて置いて、唯《ただ》眺《なが》めてばかりいらっしゃる」と年嵩な方が引取って笑った。
「しかし、私は何時《いつ》までも先生にそうしていて頂《いただ》きたいと思います」と復《ま》た髪の薄い方の女中が言った。「先生だけはどうかして堕落させたくないと思います」
「私だって弱い人間ですよ」と岸本が言った。
「いえ、手前共のようなところへもこうして御贔屓《ごひいき》にしていらしって
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