ス。何事も打明けて相談して見たら随分力に成ってくれそうな、思慮と激情とが同時に一人の人にあるこの友人の顔を見ながら、岸本は自分の身に起ったことを仄《ほのめ》かそうともしなかった。それを仄かすことすら羞《は》じた。
「先生、お熱いのが参りました」
 女中の一人が勧めてくれるのを盃《さかずき》に受けて、岸本は皆の楽しい話声を聞きながら、すこしばかりの酒をやっていた。何時《いつ》の間にか彼の心はずっと以前に就《つ》いて学んだことのある旧師の方へ行った。その先生が三度目に結婚した奥さんの方へ行った。その奥さんの若い妹の方へ行った。花なぞを植えて静かに老年の時を送ろうとした先生がしばらく奥さんと別れ住んでいたというその幽棲《すまい》の方へ行った。先生と奥さんの妹との関係は、岸本と姪との関係に似ているかどうかそこまでは彼もよく知らなかったが、すくなくも結果に於《お》いては似ていた。深夜に人知れずある医師の門を叩《たた》いたという先生の心の懊悩《おうのう》を岸本は自分の胸に描いて見た。道理ある医師の言葉に服して再びその門を出たという先生の悔恨をも胸に描いて見た。しばらく彼の心は眼前《めのまえ》にあることを離れてしまった。
「岸本先生は何をそんなに考えていらっしゃるんですか」
 と年嵩な方の女中が岸本の顔を見て言った。
「私ですか……」と岸本は自分の前にある盃を眺めながら、「考えたところで仕方のないことを考えていますよ」
「今日は何物《なんに》も召上って下さらないじゃありませんか。折角のお露《つゆ》が冷《さ》めてしまいます」
「私は先刻《さっき》からそう思って拝見しているところなんですけれど、今日は先生のお顔色も好くない」ともう一人の女中が言い添えた。
「ほんとに岸本先生はお目にかかる度《たんび》に違ってお見えなさる……紅い顔をしていらっしゃるかと思うと、どうかなすったんじゃないかと思うほど蒼《あお》い顔をしていらっしゃることがある……」
 こうそこへ来て酒の興を添えている年の若い痩《や》せぎすな女も言った。岸本はこの女がまだ赤い襟《えり》を掛けているようなほんの小娘の時分から贔屓《ひいき》にして、宴会なぞのある時にはよく呼んで働いて貰うことにしていた。この人も最早《もう》若草のように延びた。
「そこへ行くと、元園町の先生の方は何時見てもお変りなさらない。何時見てもニコニコしていら
前へ 次へ
全377ページ中33ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング