オい身《からだ》に僅《わずか》の閑《ひま》を見つけて隅田川の近くへ休みに来る時には、よく岸本のところへ使を寄《よこ》した。
「御無沙汰《ごぶさた》しました」
と言って坐り直す元園町をも、岸本をも、「先生、先生」と呼ぶほど、その家には客扱いに慣れた女達が揃《そろ》っていた。
「元園町の先生は先刻《さっき》から御待兼《おまちかね》でございます」
と髪の薄い女中が言うと、年嵩《としかさ》な方の女中がそれを引取って、至極|慇懃《いんぎん》な調子で、
「岸本先生もしばらく御見えに成りませんから、どうなすったろうッて皆で御噂を申しておりましたよ。御宅でも皆さん御変りもございませんか。坊ちゃん方も御丈夫で」
岸本が古い小曲の一ふしも聞いて見るために友人と集ったり、折々は独りでもやって来て心を慰めようとしたのは、その二階座敷であった。年と共に募る憂鬱《ゆううつ》な彼の心は何等《なんら》かの形で音楽を求めずにいられなかった。曾て彼が一度、旧友の足立をその二階に案内した時、「岸本君がこういうところへ来るように成ったかと思うと面白いよ」と言って足立は笑ったこともあった。どうかすると彼は逢《あ》い過ぎるほど逢わねば成らないような客をその二階に避け、諸方《ほうぼう》から貰った手紙を一まとめにして持って来て、半日独りで読み暮すこともあった。彼は自分と全く生立《おいた》ちを異にしたような人達と話すことを好む方で、そこに奉公する女達のさまざまな身上話に耳を傾け、そこに集る年老た客や年若な客の噂に耳を傾け、時には芸で身を立てようとする娘達ばかりを自分の周囲《まわり》に集め、彼等の若い恋を語らせて、それを聞くのを楽みとしたこともあった。一生舞台の上で花を咲かせる時もなく老朽ちてしまったような俳優がその座敷の床の間の花を活《い》けるために、もう何年となく通って来ているということまで岸本は知っていた。
「岸本さんに御酌しないか」と元園町は傍《そば》にいる女を顧みて言った。
「今お熱いのを持って参ります」
と言いながら女中はそこにある徳利を持添えて岸本に酒を勧めた。
「ああああ、久しぶりでこういうところへやって来た」
岸本は独語のようにそれを言って、酒の香を嗅《か》いで見た。
十八
元園町は岸本の前に居た。しかも岸本がそんな深傷《ふかで》を負っていようとは知らずに酒を飲んでい
前へ
次へ
全377ページ中32ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング