跪《ひざまず》くつもりで、病人の寝ている側を往《い》ったり来たりした。

        百七

「死んで行く人に隠して置くなんて……そんな法は無い」
 そう思いながら岸本は病院の門を出た。到頭彼は打明けようと思うことも言わず仕舞《じまい》に、唯《ただ》嫂の側で看護の時を送ったというだけに留めて、病室を離れて来てしまった。どうして本当のことというものはこう口に出せないのだろう、それを考えて、彼は病院の門を出てから独りで歎息した。
 岸本が愛宕下へ帰って行ったのは昼近い頃であったが、自分の部屋に戻ってからもその事が半日彼の胸から離れなかった。夜になって、離座敷《はなれ》のひっそりとする時が来て見ると、余計にその事が思われた。既に病人自身が承諾し、病人の身内のものが承諾しても、まだそれでも万一の場合を顧慮して躊躇《ちゅうちょ》している主治医が手術を決行する時は、やがてもう機会の過去ってしまう時かも知れない。岸本は愚図々々している時ではないと考えた。三人の子供の寝沈まる頃から、彼は遽《にわ》かに思い立って嫂に宛《あ》てた手紙を書いた。
「病院の寝台の上でこの手紙をお読み下さい――」
 こうした書出しで、病人に読んで貰うためになるべく文句を手短かに手短かにと書いた。彼は唯今日まで嫂に隠して置いたその詫《わび》の心を書くだけに満足しようとした。短く、短くと、心掛けた手紙は夜の二時頃までも掛った。
 翌朝岸本はそれを懐《ふところ》にして復た病院をさして出掛けた。丁度嫂の病室の方では節子が母親の側に附いているところへ行き合せた。節子の側で見る嫂は前の日に独りで見たよりもずっと病人らしい我儘《わがまま》を言う人で、そこに親子としての親しみもあらわれていた。前の日の病室の寂しさに引きかえ、窓の側に置いてある草花の鉢一つより外に眼につくものも無い灰色な部屋の中にあっては、つとめて眼立たない服装《なり》をして母を看護している節子の姿態が一層|際立《きわだ》って女らしく見えた。
「へえ、節ちゃんは何か読んでるね」
 と岸本は部屋の隅にある置戸棚の前に行って立って見た。母の看護のかたわら節子が病院で夜を送る時の心やりと見え、ルウソオの「懺悔」の訳本なぞが読みさしの枝折《しおり》の入ったままその戸棚の上に置いてあった。
 しばらく岸本はその病室で時を送った。医局の方に懇意な博士を訪ねて病人のこ
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