家へ帰りましたよ」と嫂はさも寂しそうに言って見せた。
嫂は気は確かなものであった。岸本はこの病人の口からも、部屋へ見廻りに来る附属の看護婦からも、未だ手術のないことを聞いた。彼は既に医者側の相談にも立会って、これほど衰弱した病人の身体に手術を加えることの危険をも聞いていた。
「看護婦さん、叔父さんがお見舞に来て下すったに、お茶でも入れて進《あ》げて下さい」
こんな風に嫂は寝台の上で気を揉んで、粘って来る自分の口を枕許《まくらもと》の紙の片《きれ》で拭《ぬぐ》おうとするほど元気づいて見える時もあった。
しばらく岸本は寝台の側に腰掛けながら病人の顔を見ていた。彼の眼に映る嫂は、二度と谷中の家の方へ帰って行かれそうも無い人であった。古い病室らしい壁を背景のようにして、その側に寝ている嫂を見るのも寂しい感じを起させた。一方の窓によせて室咲《むろざき》の草花の鉢《はち》が置いてあったが、それは病人を慰めるために節子が買って持って来たものと知れた。
未だ節子は谷中からやって来なかった。岸本は病人の欲しがる氷を枕頭《まくらもと》の容器《うつわ》から匙《さじ》で飲ましたりなぞして、時には気息《いき》の籠《こも》った窓の硝子《ガラス》を開けに行った。三月の二十日頃の日あたりがその病室の外にあった。窓に近く紅《あか》い芍薬《しゃくやく》の芽の延びて来ているのが岸本の眼についた。もう春だ。庭のあちこちには、患者等の楽しげに散歩しているのも見えた。さまざまな心持がその時窓の側に立つ岸本の胸に帰って来た。何故義雄兄はこの嫂にまで自分等の秘密を隠したろう、仮令《たとえ》義雄兄はそう考えたところで何故節子までが母親だけに打明けて詫《わ》びるということをしなかったろう、とよく異郷の旅の空で胸に浮べた心持が帰って来た。もう一度故国を見得るの日が来たら、せめて嫂だけには打明けよう、そしてこれまでのことを詫びよう、とそう考えて帰国の途に上った時の心持も帰って来た。
その心で岸本は寝台の方を見た。一切を皆の前に曝《さら》け出そうと志しているほどの自分が、死んで行く人に何を隠して置こう、所詮《しょせん》嫂は助かりそうも無い人だ、この病人の気の確かな中《うち》に言おう――この考えがしきりに岸本を促した。その時、彼は看護婦でも急に部屋の扉を開けて入って来るのを気遣った。幾度《いくたび》となく彼はそこに
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