済むことなんですけれど――」と節子は言った。「わたしにお娵《よめ》に来てくれなんて煩《うるさ》いことを言う人も無くなって、却《かえ》って好いかも知れません」
岸本は節子の顔を眺めたまま、しばらく言葉も無かった。
「お前のように直ぐそういう風に持って行ってしまうから不可《いけない》――俺はそう眼前《めのまえ》のことばかりも考えてはいない」
と岸本は言って見た。もし彼が旅から帰って来て節子を愛するという心を起さなかったら、あるいはここまで眼がさめるということも無いかも知れなかった。その心から、彼は言葉を継いで、
「俺は自分の子供が大きく成ったら読んで貰うつもりサ。下手《へた》に隠すまいと思って来たね。阿爺《おやじ》はこういう人間だったかと、ほんとうに自分の子供にも知って貰いたいと思って来たね……」
百三
「お前の家でも、祖母さんはもう行火《あんか》かね」
と岸本は節子に言いかけて、子供の部屋の方に温めて置いた土製の行火を見に行った。それを自分の部屋まで引いて来て、北向の障子の側に置いた。
「子供が学校から寒がって来るだろうと思って、今日は行火をこしらえといた」
と岸本は言って見せて、寒い季節を感じ易《やす》い節子の身体をも温めさせた。
「節ちゃん、お前の悪い手を一つ見せとくれ。来年からは、お前の手を直すことも俺《おれ》の仕事の一つにしたいと思ってる」
と岸本に言われて、節子は長いこと水いじりの出来ない手を行火の蒲団《ふとん》の上に置いて見せた。皮膚を侵す病は最早《もう》彼女の掌《てのひら》全体に渡っていて、神経の鋭くなった指のあたりからはどうかすると血が流れるとのことであった。
「ひどい手をしてるんだね」と岸本が言った。「こんなに悪くなるまで放擲《ほったらか》して置くなんて――まあ、良い医者に診《み》て貰《もら》うんだね」
節子は自分でも掌を眺《なが》めていたが、やがて蒲団の中へ引込ましてしまった。来年の正月あたりから、病院にでも節子を通わせたいという岸本の話は、ひどく彼女を悦《よろこ》ばせた。それには彼は今までのように一週に一度の手伝いも一切りとし、用事でもある時に通って来て貰うことにして、手の療治を専心に心がけさせたいという話をして彼女を慰めようとした。
その時節子は何か思い出したように、行火にあたりながら涙ぐんだ。
「よく私は吾家
前へ
次へ
全377ページ中320ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング