の数行の文字も書いてあった。「先刻《さっき》から何時間ここに坐っておりましょう。もう薄暗くなりました――わたしはもう何物《なんに》も要《い》りません、どうぞ最後の日まで愛させて下さい……」
百二
一度岸本の心に転機が萌《きざ》してからは、眼前《めのまえ》にある平和も、かりそめの安逸も、自分に取って体裁の好く都合の好いようなことも、結局それをどうすることも出来なかった。一方に彼を引留めようとするものがあればあるほど、彼が心に聞きつけた声はますますはっきりして来るばかりであった。十一月も末になる頃には、彼は大体の仕事の手筈《てはず》を定めるまでに成った。秋から取り掛っている旅行記の残部をも完成した上で、その他気に掛る仕事を片付けてしまった上で、それから書きにくい懺悔《ざんげ》に着手しようと思い立った。そうした著作は、よし書いて置いたにしたところで、自分の死後にでも発表すべきものではなかろうか――そんな考えが来て復《ま》た彼を引留めようとしないではなかったが。
前の年に高輪の家の方で迎えたよりももっと寒い初冬がもうそろそろ愛宕下の下宿の庭先へやって来た。北東《きたひがし》に向いて朝のうちしか日の映《あた》らない離座敷《はなれ》は殊《こと》に寒かった。女中の案内なしに廊下の突《とっ》つきの部屋のところへ来て、障子の外から声を掛けるのは節子だ。丁度岸本は自分の思い立ったことを話すつもりで彼女を待受けている時であった。節子の癖で、子供の部屋の方から一寸岸本の居るところを覗《のぞ》くようにして、それからコートの紐《ひも》なぞを解いた。
岸本の部屋の庭に面したところは全部障子であった。何となく遽《にわ》かに高くなったような板張の天井、残った蠅《はえ》の眼につく壁、いずれも初冬のおとずれを思わせないものは無かったが、殊に部屋の障子がそれを感じさせた。煤《すす》けて暗かったのを白く張替えてからは、急に明るくもなった。岸本はその初冬らしい親しみを増した障子の側で、懺悔を書こうと思うという話を節子に聞かせて、彼女の承諾を求めようとした。その日まで隠しに隠して来た二人の秘密を曝《さら》け出してしまおうということは、岸本の方で思ったほど節子を驚かしもしなかった。のみならず、彼女は例の率直な調子で、岸本の思い立ちに同意をあらわした。
「黙って置きさえすれば、もう知れずに
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