A元園町のお友達からお使で、迎えの俥《くるま》の来たことがありましたろう。会があったりして随分遅く一時か二時頃に帰っていらしって、好い事があるから話して聞かせるなんて仰って、わたしがまいりましたら、可哀そうな娘だなあッて、堅く抱きしめて大きな溜息《ためいき》していらしったの。わたしも何だかよく分らなかったんですけれど、悲しくなって泣いちまいましたの。今でもあの晩のことを時々思い出しますよ。あの次の日かに旅のお話がありましたっけね。彼地《あちら》へお立ちになる頃は、憎みも余程少くはなっていましたが、未だそれでも残っておりました。神戸をさして行っておしまいになってからは、それが皆思いやりというようなものに変ってしまいましたのよ。そして長い間にだんだん叔父さんに見つけたものばかりが、他の人の持っていないものだと思うようなものばかりが残りましたのよ。それからはもうほんとうに好きになってしまいましたの。
――まだ書かなくちゃ成りませんけれど、お父さんがいつも直《す》ぐそこの御座敷にばかりいらっしゃるんですもの。気が気じゃありません。次郎ちゃんも来て、悪戯《いたずら》ばかりして書けませんから、復《また》この次にね」
節子は初めてこんな精《くわ》しい消息を泄《も》らしてよこした。これを読むと岸本の胸にはいろいろ思い当ることばかりであった。節子の所謂《いわゆる》「創作」がこんなに早く彼女の上に起って来たことは、幸か、不幸かは、岸本にも言えなかったが、すくなくも彼女が女の一生のうちの最も柔かく最も感じ易い時代を自分と共に過して来たことは今日までの二人の小さな歴史でよく想像することが出来た。
岸本の眼にある節子は、未《ま》だ落ちつくところに落ちついていなかった。彼女がこころざしていることを知るものは岸本一人の外に無かった。彼女の青春も既に過ぎ去ろうとしている。そしてその責《せめ》は全く彼にある。彼は何物を犠牲にしても、この人のために真《まこと》の進路を開き与えないのは嘘だと思った。
九十六
眼前にある平和な光景は寧《むし》ろ岸本の心を引留めることばかりであった。二人の子供は最早すっかり今の生活に慣れて、父と共に楽しい日を送りつつある。
「泉ちゃん、じゃんけんしようよ――」
などと言って兄と共に遊ぼうとする繁には母の記憶が無いばかりでなく、兄の泉太ですら亡《
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