ネ》くなった母さんをよく覚えていないと言う程で、二人の子供は唯々《ただただ》父を便《たよ》りにし、父と共に住むことを何よりの幸福としている。
「じゃん、けん、ぽん」
「ぱあと出て」
「ぱあと出て」
「ぐっと出て」
「ぱあと出て」
「ちょっきはどうだい」
こんな二人の子供の遊び声がよく廊下のところで起って、少年時代の昔へと岸本の心を誘うのであった。
この子供の許《もと》へ毎週に一度は節子が通って来て、彼等のために着物や袴《はかま》の綻《ほころ》びを縫《ぬ》ったり、父の手で出来ない世話をしたりしてくれる。子供もまた谷中の方まで二人でよく遊びに行くように成って、祖母《おばあ》さんや、伯父《おじ》さんや、伯母《おば》さんや、それから一郎と次郎とを見ることを楽みにしている。岸本さえ今まで通りにしていれば、何もこの子供等の幼い心を曇らせずに済む。そればかりではない。岸本の動き方一つではその影響は彼の身に近い一切の人に及んで行きそうに見えた。そしてその影響からもう一度彼の方に返って来るものは、実に自分の心に辛《つら》いものばかりのように見えた。
最近に、岸本はある雑誌を受取った。その中に細君を失って再婚したある宗教家のことが出ていた。その再婚した宗教家と、独身の岸本との比較が出ていた。岸本は一度もその宗教家には逢《あ》って見たことも無かったが、その人の失った細君は昔彼が教えたことのある生徒であった。亡くなった友人の青木のことなどと一緒によく彼の記憶に上る勝子とは同姓で、たしか同郷で、同じ麹町《こうじまち》の学校に生徒として来ていた人であった。そんな関係から万更知らない人のことでも無いような気がしてその雑誌を読んで見ると、亡くなった細君の身としたら再婚する宗教家よりも、下宿に子供を養っている岸本の方がどんなにか頼もしいという意味のことが書いてあった。定めし岸本の細君は草葉の蔭で自分の夫に感謝しているだろうという意味のことも書いてあった。思わず岸本は独りで顔を紅《あか》めた。自分の現在の位置の偽りであることは、そんな雑誌を読んで見るにつけても、寧《むし》ろ人知れず彼の心を引留めるようにした。
岸本は迷いに迷った。そればかりのことに現在の生活を更《あらた》められないのかという声と、そればかりのことに現在の平和を破壊するのかという声と、その二つの声が彼の心の内部《なか》で戦った。
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