_上の友であるのに甘んずることが出来るかというに、それも彼の情熱が許さなかった。どうかすると彼は、少しでも好い方へ節子を導きつつあるのか、それとも二人して堕落の路を踏みつつあるのか、その差別も言えないように自分で自分を疑うことすらあった。彼は節子に対する哀憐《あわれみ》を自分の行けるところまで持って行こうとして、兄に隠し、嫂《あによめ》に隠し、祖母さんに隠し、久米に隠し、自分の子供にまで隠し、まるで谷底を潜《くぐ》る音のしない水のように忍び足に歩き続けて来た。この二人の路の行《ゆ》き塞《つま》ることは見|易《やす》い道理であったかも知れない。
九十二
最早《もはや》岸本は今までのように窮屈な、遠慮勝ちな、気兼ねに気兼ねをして人を憚《はばか》りつづけて来たような囚《とら》われの身から離れて、もっと広い自由な世界へ行かずにはいられないようなところまで動いた。
四年の間自己の秘密を隠しに隠そうとした岸本の心にも、漸《ようや》くその時に成ってある転機が萌《きざ》して来た。暗い暗い心を抱《いだ》いて遠く流浪の旅に上った日以来、いくらかでも彼が明るいところへ出て来たと思ったことは、二度あった。一度は、異郷の旅を行き尽して再び故国へと彼の心の向うように成った時だ。彼は赤い着物でも脱ぎ捨てるようにして、あの着古した旅の服を巴里《パリ》の客舎に脱ぎ捨てて来た。当時の彼の心では、どうやら自分の一生の失敗も葬り得られたつもりであった。国に帰ることは、彼には赦《ゆる》されることであった。五十五日の船旅の後で、彼は夢寐《むび》にも忘れることの出来ない土を踏んだ。そうして自分の子供の側まで帰って来て見ると、未だ未だ彼は眼に見えない牢屋《ろうや》の中に自分を見つけた。彼は不幸な犠牲者が自分と同じ牢屋の中にあるのを発見した。彼が笑ったことの無い節子の心からの笑顔を見た日は、すくなくも明るいところへ出て来たと思った二度目の時であった。けれども彼の言うこと為《な》すこと考えることは過去の行為に束縛せられて、何時《いつ》でも最後には暗い秘密に行って衝《つ》き当った。彼は過去の罪過を償おうが為に苦しんでも、自分の虚偽を取除こうが為には今まで何事も努めなかったことに気がついた。暗い秘密を隠そう隠そうとしたことは自分のためばかりでなく、一つは節子のためであると考えたのも、それは互に心を
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