A嬉しくて嬉しくて仕方がないの。だって――」
 こんな隔ての無い調子で書き出してある節子の手紙が八月の初に岸本の手に届いた。彼女は家へ帰ってから書きかけて置いたものだと言って、短い、しかし心を籠《こ》めた便《たよ》りを送ってよこした。先日伺った日の前の晩は自分も何度となく眼をさましてよく眠られなかったと書いてよこした。一週間|経《た》って、もう一週間と思うとがっかりしてしまう、一週間でも随分長い思いがすると書いてよこした。彼女は早くその手紙を出すことの出来なかった身の辺《まわり》の種々《いろいろ》な消息を書いた末に「早くお目に掛りとうございます」ともしてよこした。到頭岸本は八月の半ば過ぎ頃までに纏《まと》めたいと思った旅行記の続稿を予定の三分一も書くことが出来なかった。「年を取れば取ったで複雑な恋愛の境地があろうとは僕も考える――しかし、恋なんてことは、もう二度と僕には来そうもない」とは曾《かつ》て彼が異郷の徒然《つれづれ》を慰めようとして画家の岡なぞに語った述懐であった。実際そう思って歩いて来たこの世の旅の途中に、仕事もろくに手につかず夜もろくに眠られないような恐ろしい情熱が彼を待受けようとは。彼は自分の内部《なか》から押出して来たこのパッションの激浪をどうなりともして衝《つ》き切らねば成らないような心をもって、その夏の「峠」を越した。
 涼しい雨がやって来て離座敷《はなれ》の縁先を濡《ぬら》すような日もあった。雨はよく深い廂《ひさし》の下まで降り込んだ。母屋《おもや》へ通う廊下のところなぞは上草履《うわぞうり》でも穿《は》かなければ歩かれなかった。そういう日には特に下宿住居の心持や、乾燥した巴里《パリ》の方の町の空でこの雨の恋しかったことなどが岸本の胸に浮んで来て、静かに自己を省みる心に返らせた。彼は到底このままの節子との関係を長く持ち続けて行くことの出来ないのを思った。もっと二人の出発点に遡《さかのぼ》って、根本から考え直して見ねば成らない時が来たように思った。何故というに、彼が節子と二人で出て来たところは、本当に彼女と一緒に成ることも出来なければ、そうかと言って彼女から離れていることも出来ないような位置にあったからで。節子を愛すれば愛するほど彼はその感じを深くした。彼女と一緒に成るようなことは到底彼女には望めないことであった。そんなら全く互に孤独を厳守して精
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