轣tとした沈黙を彼女自身に対する何かの不満という風に釈《と》って書いてよこした。年齢の相違、智識の相違――そういうものから来る叔父さんの不満は自分にもよく分るということがその手紙の中に書いてあり、気のつかないうちに自分は何時《いつ》の間にか堅くなっていたのかも知れない、言うことがあるなら何事も遠慮なく言ってくれということなども書いてあった。
「節ちゃんは何を釈り違えて行ったんだろう。自分はそんなつもりでいるんじゃ無い」
と彼は言って見たが、こういう狭い女の胸から出て来るような言葉が、不思議とまた彼女の方へ岸本の心を巻き込む力を持っていた。彼はそう思って嘆息した。学問や芸術と男女の愛とは何故こう両立し難いのだろうと。そういう時の彼の胸にはよく「愛と智慧《ちえ》とに満ちたアッソシエ」の言葉が浮んで来る。「アッソシエ」とは生涯の伴侶《はんりょ》という意味に当る。そこまで行くということは容易でないまでも、すくなくも彼が節子と共に辿り着きたいと願うところは、多分に「友情」の混った男女の間柄であった。二人が愛情の生《お》い立ちから言っても、これから将来のことを考えても、彼の心は抑《おさ》えに抑えたものであらねば成らなかった。
しかし、岸本の眼にある節子は最早《もはや》以前の節子ではなかった。長いこと寂しかった彼の生涯に一輪の花をつけたような節子は最早映像としても全く別の人であった。驚くばかり彼女の身体に延びて来た線、悩ましいまでに柔かく女らしい彼女の表情――彼はそれらの眼にあるものを払いのけて自分の机に対《むか》っていることが出来ないばかりでなく、「淋《さび》しくて淋しくてお写真を抱いて呼んでいましたのよ」というような彼女の声を払いのけることも出来なかった。自分から節子のために珠数を見立てて贈ったほどの岸本は、この断ちがたい愛着をどうすることも出来なかった。彼はあの深い雪の中に坐ってまでも「自然」を超えようとした人の努力などを想像して見て、それによって自分を励まそうとした。国に帰ってからの二度目の大暑が復《ま》たやって来て見ると、熱のために蒸されるものは庭先の草木ばかりでは無かった。彼は烈《はげ》しい恋の情に燃えて一週間ばかり仕事も手につかなかった。
八十九
節子は弟を連れて七月の末に岸本の下宿へ訪ねて来た。丁度学校の暑中休暇が始まった頃で、その季節に
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