齪Yを迎えることは泉太や繁に取っても嬉しそうであった。同宿の青年が台湾の方へ帰省したことはややその夏を淋しくしたが、それでも子供等に取っては一年の中の最も楽しい時であった。
 子供等は離座敷《はなれ》の縁先に集まって、節子|姉弟《きょうだい》が一鉢《ひとはち》ずつ提《さ》げて来てくれた朝顔を見ていた。岸本もその花のすがたを見に行って、それから部屋の方へ二人の子供を呼んだ。
「泉ちゃんも、繁ちゃんも、お出で。今日は一ちゃんが来たから、お前達も着物を着更《きか》えましょう」
 岸本はこんなことを言って子供の世話をするのに大分もう慣れて来た。二つ違いの兄弟とは言っても泉太と繁とは殆《ほとん》ど同じ丈《たけ》の着物で間に合った。二人の子供は父がそこへ取出したのを附紐《つけひも》のしるしで見分けて、思い思いに着た。節子はまたその側へ寄って、子供等の脱ぎ捨てたものを畳んだり、部屋の隅《すみ》に片附けたりした。
「節ちゃん、お前も着更えないかね」
 と岸本は言って見た。
 この下宿へ移ってから、岸本は節子のために一枚の着更《きがえ》を用意して置いた。彼女が谷中から通って来る途中の暑さを思う心から、特に女の身体に合うように仕立てさせて置いたものであった。その涼しそうな単衣《ひとえ》に着更えて岸本と共に時を送って行くことを彼女は何よりの楽しみにしていた。
 その日は節子は躊躇《ちゅうちょ》した。それを岸本も看《み》て取って、
「それもそうだね。今日は一ちゃんと一緒だね」
 と言い直した。
 節子は風呂敷包を持って岸本の居間の方へ来た。彼女は膝《ひざ》の上でその風呂敷包を解いて、岸本から贈った珠数の返礼を取出して見せた。
「好いのがありましたよ」
 と言いながら節子が岸本の前に置いたのは、紐の色からして茶色に、さも男の持つ珠数らしく出来ていた。彼の方から贈ったものに比べると、珠《たま》のかたちも大きく、色も黒かった。
 子供等は何事《なんに》も知らなかった。唯三人の揚げる声が庭にある無花果《いちじく》の樹の下あたりから楽しそうに聞えて来ていた。岸本は節子が人知れず苦心してそういうものを見つけて来てくれたその心づかいを先《ま》ず嬉しく思った。
「どうだろう、俺に似合うだろうか」
 と岸本は笑いながら節子に言って見せた。掌《てのひら》の上に載せて見た珠と珠の触れる音すら、何となく彼の耳に快
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