tとから庭をへだてて聞える客の話声や煙草盆の音がある。「お支度《したく》が出来ました」と言っては食事の時|毎《ごと》に部屋の扉《と》を叩《たた》きに来る仏蘭西《フランス》の家婢《かひ》のかわりに、ここには御膳《おぜん》や飯櫃《おはち》を持って母屋の台所の方から通って来る女中がある。寝台や蝋燭台《ろうそくだい》から洗面器まで置いてある部屋の片隅《かたすみ》の壁の上に掛ったソクラテスの最後の図なぞのかわりに、ここには長押《なげし》の上の模様のような古い扇面を貼《は》りまぜた横長い額がある。すべてが懸絶《かけはな》れていた。それにも関《かかわ》らず、岸本は巴里の下宿生活の記憶をここへ来て喚起《よびおこ》そうとした。あの異郷の旅窓で独《ひと》り学芸に親しんだように、今またこの離座敷《はなれ》の障子の側に机を寄せて帰国以後とかく仕事も手に着かなかった一年の月日を取返そうとした。秋までに彼は旅行記の稿を継ごうとする心があった。そのために専心机に対《むか》おうとすることから言っても節子を通してちょいちょい聞えて来る義雄兄の嫌味《いやみ》を避けようとすることから言っても、彼はしばらく節子から離れていようと考えるように成った。
下宿へ移って一月あまり経《た》つ頃に、節子は暑さの見舞をかねて例の鉛筆で走り書に書いた手紙を送ってよこした。先日伺った時も、お髭《ひげ》の延びたせいばかりでなく、何だかお痩《や》せに成ったようで、自分は大変済まないことをしているような気がする、何から何まで御一人に御心配をかけて、と書いてよこした。自分もこの前伺った二三日前から少し弱っていたので、昨日は父の御供をして病院から帰りかける途中で歩かれなくなってしまった、尤《もっと》も無理に押して出掛けたことではあったが、半分夢中で谷中の家に帰り着くことが出来たと書いてよこした。こんな場合につけても叔父さんのことを思い出す、自分が我儘《わがまま》の言えるのは叔父さんと共にある時ばかりだと書いてよこした。自分の今の境遇も辛《つら》いと書いてよこした。そういえば今夜は七夕《たなばた》だ、去年の今頃はどんなに旅から帰る叔父さんを待受けたろう、いくら自分ばかり織女を気取ってもその頃の叔父さんは未だ牽牛《けんぎゅう》では無かったなぞとも書いてよこした。すこし身体の具合が悪くなったからもう止《や》める、これを受取ってくれる頃は
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