゚子も帰りの遅い祖母さん達のことを案じるように成った。
「節ちゃん、お前も帰る支度をするがいい」
 と岸本の方で言出した時、節子は座を起《た》ちかけて、
「私はもう帰りません」
 とわざと言って見せた。こういう時の節子の語気には岸本を噴飯《ふきだ》させるほどの率直があった。
「祖母さん達も、もうそれでも帰りそうなものだなあ」
 と言いながら、岸本は部屋々々を歩き廻って見た。北向の部屋の外から勝手の方へ通う廊下の屋根には小さな明り窓があって、その窓から射す日暮時の光が廊下に接した小部屋の障子を薄明るく見せていた。節子は鏡台の前に立って乾《かわ》いた髪をときつけながら帰り支度をしていた。何気なく岸本は節子の背後《うしろ》に立って、鏡の中にある彼女の女らしい姿を見た。その時、節子は岸本の胸に彼女の頭を押し当てて、この家を立ち去るに忍びないような柔かな表情を鏡に映して見せた。花見帰りの人達は間もなく遠路《とおみち》を疲れて戻って来た。
「へえ、只今《ただいま》」
 という祖母さんと一緒に、泉太や繁の楽しそうな笑い声が急に家の内《なか》を賑《にぎや》かにした。
「お蔭さまで、大楽しみを致しました」という女中までが草臥《くたぶ》れたらしく帰って来た。
「父さん、今日は大失策《おおしくじり》をやらかしたよ」と気の早い繁が誰よりも先ず途中での昼食のことを言出した。「泉ちゃんがお蕎麦屋《そばや》と間違えて、お料理屋へ飛び込んだりなんかして――玉子焼に、椀盛《わんもり》にサ――そりゃ高く取られたから」
「僕はお蕎麦屋と間違えちまったのサ」と泉太も笑い出した。
「それはそうと、お嬢さまがいらしって下すっても、今日はお昼飯《ひる》の支度も致して置きませんで」
 こう女中は節子の方を見て言った。
 この女中は節子のことを「お嬢さま、お嬢さま」と呼んでいた。
「いえ、有るもので頂いて置きましたよ」
 と節子は答えて、祖母さんや岸本が夕飯を一緒にと勧めたのも聞き入れずに、暗くなる家路を心配しながらそこそこに谷中をさして帰って行った。

        八十四

 それから、岸本は子を連れた旅人のような方針に向って動いた。そして最早《もはや》家庭というものに未練のない自分だけの栖所《すみか》を下宿に求めようとした。端午《たんご》の来る頃には――泉太や繁が幼少《ちいさ》い時分に飾った古びた金時《きん
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