ニき》や鯉《こい》なぞを取出して見たり、粽《ちまき》を祝ったりするのを楽みにしている間に――彼はわざとばかり菖蒲《しょうぶ》の葉をかけたこの軒端も見納《みおさ》めにするような心でもって、すでにすでに高輪を去ろうとする心支度を始めていた。
高輪の家に集って子供の面倒を見てくれた人達、殊に久米は岸本の思い立ちを危んだが、結局彼の意見に賛成してくれるように成った。祖母さんは谷中へ、久米は彼女の家へ、女中はまた女中で思い思いに離れ行く時が近づいて見ると、家中のものは互に名残《なごり》を惜むように成った。
五月の十五日過ぎには岸本は愛宕下《あたごした》の方の適当の下宿を見つけて来たほど事を運んだ。その時に成るまで、彼は下宿へ連れて行くということを二人の子供に言出しかねていた。学校の友達という友達で家庭から通っていないものは無い中にあって、泉太や繁が子供心に果して自分の言うことを聞き入れるだろうか、そう思っては幾度《いくたび》か躊躇《ちゅうちょ》した。
ある日、祖母さんも久米も一緒に集っている食卓の側で、岸本はその事を子供等に言出した。
「どうだね、父さんはお前達を寄宿舎へ連れて行こうと思うが。義雄伯父さんのところからは近いうちに祖母さんを返してよこしてくれと言って来てるし、どうしてもこの家は止さなけりゃ成らない。他《よそ》には母さんが有るからああしてみんな家から学校へ通っているんだけれどお前達には母さんが無いだろう。そこで父さんは寄宿舎を思いついた。父さんがお前達と一緒にその寄宿舎へ入るんだぜ。どうだね、父さんと一緒に行くかね」
「行くよ」と繁が言った。
「父さん」と泉太は弟の言葉を遮《さえぎ》るようにして、「寄宿舎から学校へ行かれる?」
「それゃ行かれるとも」
「御飯もそこで食べさせてくれる?」と今度は繁が訊《き》いた。
「食べさせるとも。そのための寄宿舎だ。そのかわり寄宿舎へ入ったら、お前達は父さんの食べる物を食べなくちゃいけない。あれが厭《いや》だ、これが厭だなんてことは、寄宿舎では言えない。出すものを食わなけりゃ成らない。それでもお前達は可いかね」
「ああ、可いとも」と泉太が事もなげに言った。
「寄宿舎には他に人も居るんだぜ。そこへ行って繁ちゃん見たいにあばれたら、それこそ大変だ。余程《よっぽど》改良しなけりゃ。あんな大きな声を出して怒鳴ったり、障子を破いたりな
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