ヘ知っていましょうよ」と節子が言った。
「輝はどうだろう」
「姉さんも知っているかも知れませんよ。丁度姉さんがお産で帰って来た時は、私はこの家に居ませんでしたからね。姉さんがお父さんの方へ行って聞けば、お母さんに行ってお聞きと言われるし、お母さんの方へ来て聞けば、お父さんに行ってお聞きと言われたなんて――姉さんだって不思議に思ったんでしょう。あの時分はお父さんは未だ名古屋でしたからね」
「そんなら、お愛ちゃんは?」
「さあ、根岸の姉さんもどうですかねえ……」
 と節子は言い淀《よど》んだ。復《ま》たしばらく二人は無言のまま対《むか》い合っていた。
「何だか、すこし変な気がして来た」
 と岸本が言うと、節子はそれを受けて、
「しかし、もうお話に成りましたよ」
 深い溜息《ためいき》でも吐《つ》くように、彼女はそれを岸本に言って見せた。

        八十三

 二人|籠《こも》っている楽しい一日もやがて底悲しく暮れて行った。一月ほど前に岸本から送った男の児の人形を大切にして僅《わず》かに母らしい悲哀《かなしみ》を寄せている節子、その人形に黒い着物を着せ黒い頭巾《ずきん》まで冠《かぶ》せ自分の児でも連れ歩くように風呂敷包の中に潜ませて岸本の許へ持って来て見せる程の節子、話そう話そうとして今までその話をする機会も思うように見出せなかったと言いたげな節子、その節子は母としての彼女の心を岸本に汲取《くみと》って貰うことを何より嬉《うれ》しく思うという風であったが、二人の間に生れた子供の話が出れば出るほど岸本はきびしい現実の感じを誘われた。節子はその話につけて、片田舎に産後の身を養っていた間よく例の女医に誘われて自分の子供の貰われて行った家へ遊びに出掛けたことを話した。その家の人達はしきりに彼女の素性《すじょう》を知りたがって、いろいろに手を分けて詮索《せんさく》したことや、名前を明すことが出来なければ東京のどの辺か、せめて方角だけでも教えよと言われたが、それだけはお断りすると言って到頭女医の方で明さなかったことなぞを話した。
「そりゃ可愛がっているんですよ――あの児の眼の悪かった時なぞは、そこの阿爺《おやじ》さんが毎日のように背負《おぶ》ってお医者の家へ通っていましたっけ」
 と岸本に話し聞せた。
 そろそろ家の内は薄暗くなりかけた。未だ屋外《そと》は明るかったが、岸本も
前へ 次へ
全377ページ中291ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング