ネ言葉を残して置いて、節子をもてなすものを探すために一寸高輪の通りまで行って来ようとした。
「節ちゃん、一寸お留守居を頼んだぜ。俺は行って何か菓子でも見つけて来る」
こう言って出た。
岸本が町から引返して来た時は、節子は奥の部屋に居て茶の用意をしていた。まだ四月の下旬であるというに、彼はめずらしい粽《ちまき》なぞを見つけて来た。男の児の節句も近づいたことを思わせるその笹《ささ》の葉の蒸された香気《におい》は、節子の口から彼女の忘れようとして忘れ得ない子供の噂《うわさ》を引出すに十分であった。岸本は自分と彼女との間に生れた男の児のことに就《つ》いて、その時初めていろいろな話に触れた。
「たしか親夫《ちかお》という名だっけね。あの名は――ほら、坊さんが自分の児に命《つ》けるつもりで考えて置いたやつを、わざわざ譲ってくれたんだなんて、お前の手紙の中に書いてあったじゃないか」
こんな知らない子供の存在を考えて見たばかりでも心の震えた旅の当時に比べると、岸本は全く別の心持で節子の前にそれを言うことが出来るように成った。節子はまた、罪過そのものも今はもう懐《なつ》かしいという面持《おももち》で、しばらく彼女がお産のために行っていたという片田舎《かたいなか》の方へ、そこにある産婆の家の二階の方へ岸本の想像を誘うようにした。不幸で、しかも幸福な子供が生みの親にも劣らぬ親切な両親を得て、平和な農家の家庭に養われているという話になると、彼女の顔には若い母らしい特別な表情さえ浮んだ。
「へえ、その家では釣堀《つりぼり》をやってるのかね。一つ鯉《こい》でも釣りに行くような顔をして、そのうちに訪ねて行って見るかナ」
この岸本の言葉は節子をほほえませた。
「しかし、何処《どこ》でどういう人に逢《あ》うか真実《ほんと》に解《わか》らないものですね――」と節子が言った。「あの田舎で大変御世話になった女のお医者さまのことを巴里へ書いてあげましたろう。あの人に逢いましたよ。お父《とっ》さんの行く眼の病院で……あの人も今では眼科の方の助手なんでしょう」
しばらく節子の話は途切れた。その沈黙の何であるかは物を言うよりもはっきりと岸本の胸に通って来た。
「お前のお母《っか》さんは、一体どうなんだろう」と岸本はその沈黙の続いた後で言出した。「お母さんは『あの事』を知ってるんだろうか――」
「お母さん
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