熄Iに近いかと思えば名残《なごり》惜しいとして、最近に節子から貰《もら》った手紙の中に書添えてあった歌だ。尤《もっと》も、彼は下手《へた》にそんな文句を言出したりなぞして、彼女の顔を紅めさせるでもあるまいと思い、それを彼女の前で口吟《くちずさ》んで見ることはしなかった。
「椿がよく咲いていますね」
と言う節子と一緒に、やがて岸本は縁側から庭へ降りて見た。細くて、しかも勁《つよ》い椿の枝の下の方には、大輪な紅い花が葉と葉の間にいくつとなく咲き乱れていた。そっくり花弁《はなびら》の形をそなえたまま庭土の上に落ちたのもあった。岸本は名残惜しそうな眼付をした節子をその椿の樹の下あたりに見た。
「どうだね、お前の髪にでも挿《さ》して見たら」
と岸本が言ったので節子は彼方是方《あちこち》と蕾《つぼみ》を探したが、彼女の取ろうとするのはいずれも彼女の手の届かないところにあった。その時、岸本は節子の手が椿の枝に触れるほどの位置にまで彼女の身体を抱きあげてやるようなユウモアのある心持に成った。
節子はめずらしく快活な、抑《おさ》えきれないような笑声と共に庭へ降りて来た。彼女は折取った紅い椿の蕾を一寸《ちょっと》髪に宛行《あてが》って見せたのみで、別にそれを挿そうとはしなかった。しばらく岸本は縁側に腰掛け、自分の側に節子をも腰掛けさせて、正午近い春の日が庭土の上にあたっているのを眺めながら二人ある静かさを楽しもうとした。
八十二
節子は庭から縁側に上って、昼飯の支度《したく》をするために勝手の方へ行った。昼には、岸本は長火鉢の置いてある祖母さんの部屋で、節子と二人ぎり簡単な食事をやった――彼女が庭から持って来た椿の花の蕾は長火鉢の板の上に載せて置いて。
岸本の眼に映るその日の節子は、日頃気兼ねをしなければ成らない誰のことも全く忘れ去っている人のように見えた。それがまた、あまりに遠慮がちな平素の彼女にも勝《まさ》って、どれ程彼女を自然にしたか知れなかった。濃い茶色の縁を裾《すそ》の方に取ったような※[#「ころもへん+施のつくり」、第3水準1−91−72]幅《ふきはば》の広い質素な着物までが、部屋々々を往《い》ったり来たりする彼女の動作によく似合って見えた。
「お前は一体静かなことが好きなんだろう。そこが俺《おれ》と一致するところかも知れないね」
岸本はこん
前へ
次へ
全377ページ中289ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング