諱sま》ず祖母さんを見ようとして、長火鉢《ながひばち》の置いてある部屋の方へ行った。
「祖母さんは?」
と訊《き》く彼女を迎えて見ると、まるで家の内は寺院《おてら》のようにしんかんとしていた。岸本は以前の浅草の家の方で、よく家のものを送り出し、表の門を閉めて置いて、独り居る寂しさを楽んだことなぞを思い出した。
「今日は皆お花見さ、俺《おれ》独りお留守居だ。お前も帰るなら、もう帰っても可《い》い」
「そんなら帰りましょうか」
と節子はわざと言って見せて、それから、廊下づたいに奥の部屋へ来た。岸本は誰よりも先ず節子に自分の手一つで泉太や繁を養って見ようと思い立っていること、それには遠からず適当な下宿を見つけて子供等と一緒に移り住もうと考えいることなぞを言出した。
「男の手で果してこんなことが出来るだろうか。出来ても、出来なくても、まあ俺は自分で子供を育てて見るつもりだ」
この岸本の思い立ちは、それほど節子を驚かしもしなかった。
八十一
「いよいよ高輪もお仕舞《しまい》ですかねえ」
そういう節子は、この屋根の下に岸本よりも多くの記憶を持っていた。彼女をこの家に移して置いてそれから遠い旅に上ったのは岸本であっても、三年の暗い月日をここに送ったのは彼女自身であるから。
その時に成って見ると、四年このかた住み荒した家の内のさまが今更のように岸本の眼についた。四年前節子が品川の方に起る汽車の響の聞えなくなるまで同じところに立ちつくしたという庭先へは、最早濃い春がめぐって来ていて、青々とした若葉の色は草木の感じを深くした。ろくろく手入をしたことの無い庭の植木という植木は一つとして野性に帰っていないものは無いかのように見えた。梅の枝なぞは殊に延び放題延びて、黒ずんだ旧葉《ふるは》の上に更に新しい葉を着けていた。庭の片隅《かたすみ》には乙女椿《おとめつばき》と並んだ、遅咲の紅《あか》い椿もあった。その花のさかり、青葉のさかりは、荒れ朽ちた軒端《のきば》の感じに混って奥の部屋の縁先にある古い硝子戸《ガラスど》に迫って来るかのように映っていた。
[#ここから1字下げ]
「灰色に銀糸まじれる遠方《をちかた》の夕立のごとき思ひ出の家
銀もよし灰色もまたなつかしやくりひろげたる絵まきものみな」
[#ここで字下げ終わり]
岸本の胸に浮ぶのはこの歌であった。高輪
前へ
次へ
全377ページ中288ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング