燻Uりぬ
 君もなく我が身もなくて魂《たま》二つ静かにはるのひかりのなかに
 青葉もる春のひかりはやはらかく苔むせる石のうへに落ちけり
 手をとりて静かにあゆむ石段やはるかぜゆるくおくれ毛をふく」
[#ここで字下げ終わり]

 これを読んで岸本は墓地での印象が彼女の上にも深かったことを知った。
 その頃からの節子は顔の白いものなぞもなるべく薄く目立たないようにつくろうとする人に成って行った。この事は些細《ささい》ながらに岸本の心を悦《よろこ》ばせた。彼女の顔の淡いよそおいは、こころよく岸本の忠告を容《い》れたのであるから。それがまた今までに比べてどれ程彼女を自然にしたか知れなかったから。同時に彼は老い行こうとするものの心づかいが知らず識《し》らずの間にこんな忠告の形を取ってあらわれて来たことを考えて、なるべく彼女の目立たないようにとは、その実自分の嫉妬《しっと》であることを心に恥じない訳に行かなかった。どうかするとその心は、年若な人達に接触する機会を持った彼女の境遇に向わないでは無かった。でもその嫉妬は軽く通過ぎて行ってしまうような、そんな程度のものであった。ある時、彼は節子の前に、その心を話して見る折を持ったことも有った。
「俺のところへは随分いろいろな女の人が訪ねて来るぜ。お前はそれでも気に成らないかね」
 と彼の方で串談《じょうだん》半分に言出して見た時でも、節子は苦笑《にがわらい》して取合わなかった。
「こういう心持には嫉妬は附き物なんだ。別にそんなものの起って来ないところは不思議じゃないか」
 と彼の方で言うと、節子は例の調子で、
「そんな余裕が無いんでしょうに……」
 と答えたこともあった。
 節子が一切をささげて岸本に随おうとする心は、それが彼にもよく感じられた。「お前は何時までも俺のものかい」と彼の方で訊《き》いた時に、「ええ何時までも」と答えた通り、彼女はすでにすでに岸本のものであった。それにも関《かかわ》らず、求めても求めても得られない愛着の切なさは、自分のものでありながら自分のもので無いと思う節子をどうすることも出来なかった。夜になると、寂しいところにある彼のたましいはよく節子の名を呼んだ。彼女は自分と共にある、自分もまた彼女と共にあるだろうか、そんなことを思いながら独り寝た。どうかすると彼は半分夢のように、自分の耳の底の方で優しいささやくよう
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