ゥめるつもりだった。そのつもりで旅から帰って来た。もし俺が結婚したら――それでもお前は待ってるつもりだったのかい」
「ですから、低気圧が起って来たんじゃ有りませんか」
と節子はすこし顔を紅《あか》めながら答えた。
この節子の答えは岸本を静止《じっと》さして置かなかった。実際、旅から帰って来た彼をもう一度節子に近づけたのも、あの不思議な低気圧であったから。
「ああそうか。そうだったのか」
と岸本は思い出したように言って、古い墓石の並んだ前をあちこちと歩いて見た。三年も節子が待受けていたのは、良い縁談でもなく、出世の道でもなく、旅から帰って来る岸本であったということが、最早疑問として残して置く余地も無くなって来た。節子に起って来た憂鬱《ゆううつ》の何であったかは、旅で貰《もら》ったかずかずの手紙の内容《なかみ》と相待って、何もかも一息に岸本の胸に解けて来るように成った。
「もう低気圧は起りません」
節子は感慨の籠《こも》った調子でそれを言って見せて、やがて墓の隅を離れた。
「椿が咲いてますね」
と節子が言出した頃は、彼女は既に崖を上って、新しい墓のある傾斜の地勢を岸本と一緒に歩いていた。しばらく二人で腰掛けて来た墓地の一区域も眼の下に見えるように成った。
「でも、三年の間よくそうして待っていられたね」と岸本は歩きながら節子の方を顧みて、「お前の手でも悪くなかったら、そうして待ってはいられなかったかも知れない」
「そうですね。この手が悪くなかろうものなら……私はお嫁に行かなくちゃ成らなかったかも知れませんよ。余程《よほど》この手にはお礼を言わなくちゃ成りませんね」
「しかし節ちゃん、お前はそれでほんとに可《い》いのかい――これから先、そうして独りで立って行かれるのかい」
「そんなに信用がありませんかねえ――」
この節子の力を入れて言った言葉は岸本に安心を与えた。
七十九
墓地で送った時は短かった。しかしその夕方まで家の方で節子と一緒に成った間にも勝《まさ》って忘れがたい印象を岸本に与えた。それから二三日|経《た》つと彼は谷中からの手紙を受取った。それは義雄兄の意を受けて節子の代筆した金の相談に関した手紙ではあったが、彼女は別に鉛筆で書きつけた歌を同封してよこした。
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「くれなゐの椿の花はおくつきに二人あゆみしみちに
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