@ 七十七
やがて節子の通って来る道には早咲の椿の花弁《はなびら》なぞがしきりに落ちるように成った。例のように岸本は途中まで迎えに出て、谷中の方からやって来た節子とある邸地《やしきち》つづきの寺の附近で一緒に成った。彼は独《ひと》りで家の界隈《かいわい》を散歩するうちにその辺から東禅寺の墓地へ通う抜け路を見つけて置いた。その日は節子と一緒に墓地を歩いて見ることを楽みにして、先《ま》ずその方へ彼女を誘った。岸本が先立って案内して行ったのは岡の上にある寺の境内を本堂の裏側へと廻ったところであった。そこから東禅寺の墓地へ抜けるには、新しい墓の並んだ同じ地つづきの傾斜を降りて、藪《やぶ》の多い崖《がけ》一つ越さねば成らなかった。岸本は先ずその崖を飛び降りて見せた。それから崖はずれの樹木の間に立つ節子を見上げた。
「お前にそこが降りられるかね」
と言って岸本が手を貸そうとする間もなく、節子は自分の洋傘《こうもり》を力に崖を降りてから岸本と顔を見合せた。
どれ程の死者の数が眠っていると言うことも出来ないような、可成《かなり》広い墓地の眺めが二人の眼前《めのまえ》に展《ひら》けた。苔《こけ》蒸した墓石は行く先に並び立っていた。その墓石の古い形式から言っても、惜気もなく石材を使って組立ててある意匠から言っても、全く今の時代からは遠いことを語っていた。そのあたりには何となく廃墟《はいきょ》の感じを与える場所すらもあった。岡つづきの地勢を成した小高いところにある墓地の向うには、古い墓でも動かすかして、四五人の人足の立働くのが見えた。岸本は節子と一緒に石を敷きつめた墓地の一区域へと出た。そこまで行くと人足達の姿も高い墓石に隠れて、唯土でも掘り起すらしい音が闃寂《しん》とした空気にひびけて伝わって来ていた。
ふと昔の友達の青木が住んだことのあるのもこの広い古い寺の境内であったことが、岸本の胸に来た。彼はあの亡《な》くなった友達と、まだその頃二十一二にしか成らなかった自分とが一緒に腰掛けた墓の側に、結婚の話に思い迷って青木の許へ相談にでも来たらしい年の若い婦人を見かけたことを思出した。しかし彼はこんなことを胸に浮べたのみで、別に節子に話し聞かせようともしなかった。彼は節子を誘って墓地の中の通路を小山の方へと取り、傾斜を成した樹木の多い地勢に添うて石段を上って行った。
巨
前へ
次へ
全377ページ中283ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング