「つ》も何時も風邪《かぜ》などばかり引いていて、ろくろく仕事の手伝いも出来ないで済まないとは、彼女がよく岸本の許へ書いてよこす言葉であった。極く寒かった間は、岸本は谷中の方に居る時の彼女の骨の折れることを思って、自分の家では寧《むし》ろ彼女を休ませるくらいにした。三月とは言っても復《ま》た気候は寒さを繰返しているような日であった。祖母さんや岸本が帰りの途中を心配したので、その晩は節子は高輪にゆっくりした。
「これは覚えがおあんなさるでしょう」
と節子は祖母さんの部屋の方から熱い茶なぞを運んで来る序《ついで》に、自分の掛けている半襟《はんえり》を一寸《ちょっと》岸本に見せるようにすることも有った。
「浅草で掛けていたじゃ有りませんか」
と彼女は言って見せた。
岸本は折を見て、節子のために下町の方から見つけて来た男の児の人形をそっと取出した。そう大きくもなく、小さくもないもので、着物も着せてはなかったが、眼なぞは男の児らしく愛らしく出来ていた。彼は何のつもりもなく、唯《ただ》用達《ようたし》に行った序にそんなものを見つけて来たのであった。それを節子の袖《そで》の下へしのばせた。
意外にも、この小さな贈物は節子の眼から留めどの無いような涙を誘い出した。彼女の呑《の》もうとする啜泣《すすりなき》の声は、どうかすると祖母さんや久米や女中にまでも聞えそうに成って来た。
「節ちゃんはどうしたんだねえ」
終《しまい》には岸本は荒々しく言って、ややもすれば家のものに聞えそうな節子の涙からその場を救おうとした。節子はもう座にも堪《た》えられないという風であった。彼女は部屋の隅《すみ》の方へ立って行って、自分の袖で自分の声を抑《おさ》えるようにしながら、忍び泣きに泣いた。
その翌朝節子が人形を風呂敷包の中に潜ませて谷中の方へ帰って行く時に成っても、まだ岸本は自分の悪い洒落《しゃれ》を彼女の涙に結び着けて見る暇《いとま》がなかった。節子は谷中の家の二階の例の三畳で書いたらしい手紙を岸本のところへ送ってよこした。昨日は折角くれたものをあんなことに成って、定めし本意なく思ったであろう、と書いてよこした。自分の位置を考えるにつけてもこの節は余計に思出される、自分は愛姉さんや輝姉さんをちっとも羨《うらや》ましいとは思わないが、しかしこればかりは、と書いてよこした。あの無邪気な人形の顔を
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