ト行くの外はなかったろうと想って見た。彼の堕ちて行ったデカダンスとは、中野の友人の言うような「無為」の陥穽《おとしあな》のそれでもなく、寧《むし》ろ結局|狂人《きちがい》にでも成って終を告げるより外に仕方のないようなそんな憂鬱《ゆううつ》な性質のものであった。彼はそんなことを人からも言われ、自分でもよくそんなことを考えて見たことを思い出した。彼の恐れるように成って行ったのは何よりも「死」であった。それが三人の女の児を先立てたことに胚胎《はいたい》したことを思い出した。過去を通して、あの頃ほど「死」が彼の胸を往来したことはなかったが、それがもう破滅に近い暗示のように考えられたことを思い出した。彼が冷い壁をじっと見つめたぎり、人と口をきくことも二階から降りることさえも厭わしく思うほど動けなくなってしまった時は、「死」がそろそろ自分の身体にまで上りかけて来たかと恐ろしく考えたことを思出した。そうした心持で、頽廃《たいはい》した生活の終の幕に近づいて行ったことを思出した。節子を中心にして起って来た強い嵐《あらし》は過去の生涯の中での一つのキャタストロオフであったように見えて来た。
 最早《もはや》草木の活《い》きかえるような季節が岸本の眼前《めのまえ》にめぐって来ていた。
 春らしい雪が来て庭を埋めたと思うと、一晩のうちにそれが溶けて行って、その後には余計に草の芽を見るように成った。何時来るか何時来るかと思って岸本の待侘《まちわ》びていたような春は、漸《ようや》く彼の身にも近づいて来たかと思わせた。彼は思い出の深い心をもってこの季節を迎えるものが自分ばかりでないことを思い、節子が最近に来て置いて行った小さな手帳をあけて見た。
「自分は何故こんなに奥深く思いを秘めて置かなければ成らないのか。もうちっともそんな必要は無くなった。それなのに、胸に溢《あふ》れるほどの思いもそれを言いあらわすべき言葉を奪われてしまった人のように、どうしても外にあらわすことが出来ない。長い長い沈黙――恐ろしいものだ、口業《くごう》を修めていたかのような私は今までのとおりに何故黙ってばかりいるのか。私は話したい、そして、ほんとに聞いて下さるではないか。あの厚い氷が暖かい春の光に逢って次第に溶けて行くように、私の唇《くちびる》もきっと溶けて行くにちがいない。早く早く自由に思いのままを話すことが出来たら、私
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