ス僧侶《ぼうさん》と尼僧《あまさん》との寝像が物を言うように成った。この二人は終生変ることの無い精神的な愛情をかわしたとした文句の彫りつけて掲げてあった白い大理石なぞはまだ彼の眼にあった。彼はあの御堂の周囲《まわり》を廻《めぐ》りに廻って立去るに忍びない思いをして来たその自分の旅の心を節子に話した。あの御堂を囲繞《とりま》く鉄柵《てっさく》の内には秋海棠《しゅうかいどう》に似た草花が咲き乱れていたことなぞをも話した。
「そうだねえ。添い遂げられない人達は直《す》ぐ破滅へ急いでしまう。ああいう二人のように長く持ちこたえて行くなんてことは容易じゃないね」
こう彼は言った。節子はまた熱心に彼の話に耳を傾けていた。この異国の物語は何となく彼女の精神《こころ》を励ましたように見えた。彼はそれを嬉しく思って、何かまたアベラアルの事蹟《じせき》に就《つ》いて書いたものでも手に入ったら、それを彼女に送ろうと約束した。
めずらしく岸本は節子と二人で話したような気がした。彼女が谷中《やなか》の方へ帰って行った後には、余計にその心持が深かった。長く疑問として残っていた年齢《とし》の相違から来る男女の間の心の隔りなぞも、話せば話すほどそれを忘れることの出来るような動いたものと成って行くように見えて来た。尤《もっと》も岸本の皮肉は節子の胸にこたえたと見え、彼女からは用事の手紙の端に次のような言葉を書き添えてよこした。
「あんなに御いじめなさらないで下さいな。沢山沢山御話したいことがあるけれど、御自分で話されないようにしておしまいなさるんですもの」
七十一
岸本は海外の諸国を遍歴して来た旅行記の一部に着手した。その仕事を始めているうちに、雪が来て幾度《いくたび》も書斎の外の庭を埋めた。丁度遠い旅に出るまでの思い出の多い季節を追って、彼はその旅行記を書いて行った。彼は一種の感慨をもって、何物を犠牲にしても生きなければ成らなかったような当時の心の消息をその中に泄《もら》した。彼は旅行記の一節にこう書いた。
「……野蛮人は必要によって動く。私が矢張《やはり》それだ。もうどうにもこうにも仕方がなくなって、それから動いて来た。私はあの七年住慣れた小楼に、土の気息《いき》にまじって通って来るかすかな風の歎息《ためいき》のようにして、悲しい憤怒《いきどおり》の言葉を残して来た。そう
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