ネぞより気の利《き》いてる人がいくら有るか知れない。どうだね、そういう人でも一つ探して見る気に成ったら……」
 半分は心やすだて、半分は串談《じょうだん》のように、岸本はこんなことを言出して笑った。その時ほど岸本は自分の心の醜さをあからさまに節子に見せたことは無いとも思った。それほど彼の言うことは自分の耳にさえ嫌味《いやみ》に皮肉に聞えた。
「そんなら、これから探しましょうかね――せいぜい若い人でも」
 と節子は戯れるように言った後で苦笑いに紛らわした。彼女はもうこんな話を避けたいという様子をした。

        七十

 解《ほど》けかかって来たようでもまだ解けないのは堅く結ばれた節子の口であった。「ほんとうに何でもお話することの出来る時が来ました」と手紙では言ってよこしても、実際の節子はまだ言えない沈黙で言おうとする言葉に更《か》える場合の方が多かった。その節子と対《むか》い合っているうちに、家まで来る途中で彼女の言出した言葉が、「私はもう男に成りました」と彼女の言った言葉が、岸本の気に掛っていた。
「先刻《さっき》お前の途中で言ったことサ――俺はあれを思い出した。お前も苦しんで考えてると見えるね」
 と言って岸本は肉のくるしみから出発した二人の関係をそこまで持って行こうとしているような節子の顔を見まもった。それほど懺悔《ざんげ》の気分で、若い女のさかりの年頃を過そうとする彼女の思いつめた心が可哀そうに成って来た。
「なにもそんなに無理に男と言わなくても可いじゃないか。女でも可いじゃないか。大きな悟りの心を想って御覧、もし魂を浄《きよ》くすることが出来るものなら、肉を浄くすることも出来ようじゃないか――」
 この岸本の言葉は節子をほほえませた。
 その日の午後に、かねて岸本が巴里《パリ》の客舎の方で旅の心を慰め慰めした古い仏蘭西の物語が節子との話の間に引出されて行った。旅から岸本が国の新聞紙へあてて送った折々の通信は節子の手で切抜にして保存してあったくらいで、その中に書いてあるアベラアルとエロイズの名は節子の記憶にも残っていた。まだ岸本はあの古いソルボンヌの礼拝《らいはい》堂などに結びつけて見て来た旅の印象を忘れることが出来なかった。不思議にも死んだ物語が彼の胸に活《い》きて来た。あのペエル・ラセエズの墓地で見て来た古い御堂の内に枕《まくら》を並べて眠ってい
前へ 次へ
全377ページ中272ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング