スから、そのつもりでよくやりましょうねッて――」

        六十九

 思いつめて来たような節子の言葉は岸本の沈思を誘った。彼女が最早《もはや》この世を捨てようとしていることは、その語気で岸本にそれが感じられた。
 丁度その時、岸本は後の方から歩いて来る人の足音に気がついた。その足音がだんだん近く成って来たかと思うと、やがてその人は彼や節子よりも先に成って、一寸《ちょっと》こちらを振返って見て行った。あだかも後方《うしろ》から見た通りすがりの二人の男女の何者であるかを前からも見て行こうとするかのように。邸つづきの静かな路とは言っても、そこは高輪への通路の一つに当っていた。岸本は節子と一緒に歩くというだけに満足して、家に近い高輪の通りへ出てからは一歩《ひとあし》先へ彼女を急がせた。
 まだ岸本には正月のはじめあたりから続いて来ている割合に醒《さ》めた心持が残っていた。その冷かなものが節子の来るのを待遠しく思うほどの心に混り合っている時であった。その心で、彼は家へ戻った。彼は節子の方からもっと動いて来ることを望んでいたばかりでなく、自分の正体をももっとよく彼女に見届けて貰《もら》いたいと願っていた。丁度|祖母《おばあ》さんは年始かたがたしばらく谷中の家へ、久米は茶の会へ、二人とも留守の日で、岸本は節子の前に自分の胸の底のわだかまりを切出して見る折があった。
「俺《おれ》はもう一生、誰にも自分の心をくれないつもりだった。到頭《とうとう》お前に持って行かれてしまった」
 忘れることの出来ない苦い過去の経験がこんな言葉に成って岸本の口から出て来た。まるで男にでも話しかけるように節子に話しかけた彼の語気はすこし彼女を驚かした。
「まあ、あんな調子で物を仰《おっしゃ》るなんて――」
 と節子はすこし側《わき》の方へ眼をそらして半分|独語《ひとりごと》のように言った。
 しかし岸本は、節子と彼との年齢の相違から起って来る猜疑《うたがい》深い心までも彼女の前には隠すまいとした。
「今まで俺はあんまりお前をいたわり過ぎたと思って来た。女の人だと思っていたわり過ぎるということが、結局本当の話をさせないんだと思って来た。節ちゃん、お前は一体俺みたような人間の何処《どこ》を好いと思う? 髪はもうこんなに白く成って来たし……俺なぞはもうそんなに長く生きてやしないんだぜ。もっと若い人で俺
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