ヘ何となくまだ物足りない余地があった。彼女を保護し、彼女を導くというだけでは、最早彼には物足りなくなって来た。あまりにつつましやかな彼女の手紙の調子も物足りなくなって来た。言葉を更《か》えて言えば彼はもっともっと節子の方から動いて来ることを望んでいた。
六十八
谷中から節子が岸本の家へ通って来る日はおおよそ毎週の土曜と定めてあった。彼女は父の附添いとして一日置きの病院通いに差支《さしつかえ》ないかぎり、叔父の許《もと》へ手伝いに来ることを怠るまいとしていた。義雄が眼を患《わずら》うように成ってから、一層節子は母親を助けて働かねば成らないという様子を見せた。仮令《たとえ》僅《わずか》の所得でも彼女は叔父から得る月々の報酬を母親のために役に立てようとしていた。岸本は旅の土産《みやげ》ともいうべき自分の仕事に取掛った時で、彼女に与える仕事らしい仕事を用意する余裕もなく、写し物とか校正とかそういう方の手伝いでも頼みたいと思っていたが、そういう仕事の有る無しに関《かかわ》らず彼は節子と共に働いていると考えることを楽みとした。一度彼は散歩がてら自分の家を出て、節子の通って来る路《みち》の途中まで彼女を迎えに行ったことがあった。品川線の電車の停留場のあるところから彼の家へ通うだけでも可成《かなり》の歩きでがある。その日は、彼は高輪の通りからある横町を折れ曲ったところまで行き、高台に添うた坂道の上まで行き、その坂を降り電車の停留場までも行って待受けたが、到頭節子は来なかった。
正月の十五日過ぎに、岸本は同じ路を歩いて行くことを楽みに思いながら、ある大きな邸《やしき》の外廓《そとがわ》について郊外らしい途《みち》の曲り角へ出た。その辺で、谷中から遠く通って来る節子を待受けた。彼は黒い質素な風呂敷包なぞを小脇《こわき》にかかえた彼女と一緒に成った。
節子は途次《みちみち》いろいろなことを思いながらやって来たという風で、岸本に随《つ》いて人通りも少い途を静かに歩いた。突当りに古風な格子《こうし》のはまった窓の見える邸の側まで歩いて行った頃、彼女は岸本の方を見てこんなことを言出した。
「私はもう男に成りましたよ。お父《とっ》さんはあの通りですし、一ちゃんでも次郎ちゃんでもまだ幼少《ちいさ》いんですし、お母《っか》さんと二人でその話をしましてね、私はもう男に成りまし
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