ヨ気兼ねをしなければ成らなかった。彼が節子を保護しようとする心もとかく思うに任せなかった。何故というに、彼は谷中の方に節子を置いた時のことばかりでなく、自分の家の方へ訪《たず》ねて来た時のことも考えて見ねば成らなかったから。
「節はあれでどれ程叔父さんを頼りにしているか知れません。叔父さん一人が彼女《あれ》の力です。なんでも若い時には、物をくれる人が一番好い人です」
こう祖母さんは最早取って二十五にもなる節子のことをまだほんの子供のように言っていた。
六十七
しかし、節子に許した岸本の心とても冷熱を繰返さずには動き進んで行くことが出来なかった。激しいパッションがやや沈まって行った後では、それと反対な冷《ひやや》かな心持が来て彼の胸の中で戦った。
岸本は自分の部屋を見廻した。声が来て独り仕事に親しもうとする彼を試みようとした。その声は大きな打消の声というでもなく、寧《むし》ろ細々とした小さな耳の底にささやくような声ではあったけれども、その小さな声に幻滅的な心持を誘われるものがあった。その声は彼に訊《き》いた。学問や芸術と女の愛とが両立するものだろうか。帰国以来再会した節子と彼との間に起って来たことも結局互の誘惑ではなかったか。二人の結びつきは要するに三年孤独の境涯に置かれた互の性の饑《うえ》に過ぎなかったのではないか。愛の舞台に登って馬鹿らしい役割を演ずるのは何時《いつ》でも男だ、男は常に与える、世には与えらるることばかりを知って、全く与えることを知らないような女すらある、それほど女の冷静で居られるのに比べたら男の焦《あせ》りに焦るのを腹立しくは考えないかと。こうした声から誘われる心持は、節子のためと考えている一切の重荷や、眼に見えない迫害の力のために踏みにじらるることや、耐《こら》えに耐えている心の痛憤や、それらのものをどうかすると堪《た》えがたくはかなく味気《あじけ》なく思わせた。
まだ彼は節子のような年少《としした》な女が自分に向って彼女の柔かな胸をひろげて見せたことを不審に思わずにはいられなかった。彼は年少な節子の機嫌《きげん》を取ろうとするような自分の姿を見つける度に言いあらわしようのない腹立しさを感じた。彼の気質としては自分で自分の機嫌を取ることも出来ない。どうして気恥しい思いもなしに他《ひと》の機嫌を取ることが出来よう。そこに
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