フ手紙に書いてある文句を繰返して見て、その調子で延び行こうとする彼女の生命《いのち》を想像した。
六十六
「わたしどもほど、幸福な春を迎えるものがまたと御座いましょうか――」
年も尽きようとする前の晩に節子の書いたこの短い手紙が岸本の手に届いた。自分等二人ほどと彼女が言って見せた幸福な春は、まだまだ岸本には遠いところにあるとしか思われなかった。彼はそういう抑《おさ》えきれない歓《よろこ》びの言葉が単なる負惜みに堕《お》ちることを恐れた。どうかして彼は周囲のものに対する彼女の小さな反抗心を捨てさせたいと願った。叔父とか姪とかの普通の人情、普通の道徳の見地から、ややもすれば冷い苛酷《かこく》な眼を向けようとするものに対して、彼の執ろうとする道は小さな反抗心を捨てるにあった。最後の勝利なぞということはどうでも可いと思っていた。彼は勝つとか負けるとかを自分の念頭にすら置いていなかった。節子の書いてよこした手紙の文句は短くて、彼女の言おうとする意味はいろいろに取れ易くもあったが、しかし彼が節子と共に待受けたのは決して決して世にいう幸福な春ではなかった。世の幸福も捨てはてた貧しいものにのみ心の富を持来そうとして訪れて来るような春であった。
やがて新しい年がめぐって来た。節子は叔父の心配して造ってやったコートに身を包んで遠路《とおみち》を通って来るように成った。それまで彼女は激しい季候を防ぐものもなしに、よく途中から寒い雨に濡《ぬ》れて来て、その可傷《いたいた》しさが岸本には見ていられなかったからで。
「コートなんかは無くても済むものだなんて、お父《とっ》さんが喧《やかま》しいことを言いますからね――まだお母《っか》さんだけにしか見せません」
と言いながら、節子は玄関に畳んで置いてあった質素な感じのする新しいコートを奥の部屋まで持って来て、岸本の見ている前でその灰色のやつに袖《そで》を通したり、玉子色の内紐《うちひも》を結んで見せたりした。彼女は新規に誂《あつら》えるまでもなく、松坂屋あたりの店で見つけた出来で間に合わせて、唯寸法だけを少し詰めて貰ったとも言った。
「私が着ていたって、お父さんは知らずにいますよ」
と復《ま》た節子は言って、それとなく眼の悪い父親の噂《うわさ》をもした。
こうした雨具一枚節子に買って宛行《あてが》うにも、岸本は四方八方
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