カは大きい。この世に成就しがたいもので、しかも真実なものがいくらもある。こう深思する心は岸本を導いた。彼は一門の名誉のために自分の失敗を人知れず葬り隠してくれたような、あの義雄兄との別れ路《みち》に立たせられたことをつくづく感じて来た。彼は兄の心に背《そむ》いても、あの不幸な姪《めい》を捨てまいとした。
 岸本は節子が自分と同じように、黙って彼女の道を歩き出したことを想って見た。日頃「親の面汚《つらよご》し」のように言われている節子にも、その親のために役に立つ時が来た。年も暮れようとする頃に成って、突然義雄が重い眼病に罹《かか》ったからで。急にそんな風に義雄の眼が見えなく成って来た病の源《みなもと》に就《つ》いては、眼科を専門にする博士ですら未《いま》だハッキリしたことは言えないとのことであった。この義雄に随いて病院通いをするにしても、一切の手紙の代筆をするにしても、節子は谷中の家に取って無くてならない人に成って来た。彼女はその境遇の中で、高輪の方に心配している祖母さんや叔父のところへ父親の容態を知らせに来ることを怠らなかった。時としては彼女は寒い雨の降る日に谷中から通って来て、祖母さんの部屋の行火《あんか》に凍えた身を温めながら、少し横に成っていることもあった。
「節ちゃん、お前まで弱ってしまっちゃ不可《いけない》よ」
 こう岸本はそこに疲れ倒れている節子を励ますように言って、彼女の眼に涌《わ》いて来る涙をそっと自分の口唇《くちびる》で拭《ぬぐ》うようにしてやることもあった。
 師走《しわす》ももうあと三日しかないほど押塞《おしつま》った日のこと、岸本は節子から送ってよこした短い手紙を受取った。
「あの聖書の中に、汝等《なんじら》求めよ、さらば与えられん、尋ねよ、さらば遇《あ》わん、叩《たた》けよ、さらば啓《ひら》かれんというところが御座いますね。もう少し前のあたりから、あの辺は私の好きなところで御座います。オオ叩けよ、さらば啓かれん――わたしどもはきっと最後の勝利者でございますね」
 と鉛筆で認《したた》めてあった。
 それを読むと、岸本の胸には二十五というさかりの歳《とし》を迎えようとする彼女のことが思われた。遠い先の方をめがけて自分を力に進もうとする彼女の胸の鼓動までも想像で聞くことが出来るように思われた。
「オオ、叩けよ、さらば啓かれん――」
 岸本は節子
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