ト見せた。
母親の呼ぶ声を聞きつけて節子は弟と一緒に階下《した》へ降りて行った。二階には岸本|独《ひと》り残った。節子の勉強する机をなつかしむ心と、独りでノンキにその三畳に横にでも成って見たい心と、その二つの混り合った心から、彼は手紙書く気にも成れなかった。そこは飾り一つ無い小部屋で、唯《ただ》節子が彼女のたましいを沈着《おちつ》ける為にのみある「隠れ家」のようにも見えた。僅《わず》かに女らしい繊細な趣味を机の辺《ほとり》にとどめたような、その部屋の簡素なことが、反《かえ》って岸本を楽ませた。
一人の客が岸本に逢《あ》いに来てやがて帰って行った頃は日暮に近かった。節子は高輪の方にある時とも違う心易《こころやす》さから、二階を片付けながら岸本に話しかけに来ることもあったが、その度《たび》に次郎が彼女に随《つ》いて来た。一郎までがめずらしそうに二階へ上って来た。彼女は附纏《つきまと》う弟達をうるさがって、部屋々々を逃げて歩いた。
「泉ちゃんや繁ちゃんが大きく成ったら、何と思うでしょうねえ」
節子は唯そんな僅かな言葉を掛けるのを楽みに岸本の側へ寄った。
「何と思われたって仕方が無いじゃないか。唯、真実《ほんとう》によく知って貰いたいと思うね……大きくなって解《わか》りさえすりゃ、そりゃお前|吾儕《われわれ》の心持を認めてくれる時もあろうじゃないか」
こう岸本の方では答えたが、それぎりもう二人はそんな話をしなかった。
義雄は時刻を違《たが》えず夕飯前に帰って来た。何年|振《ぶり》にあの碓氷川の水音が聞けることか、そんな話が義雄の方からも岸本の方からも出た。その晩岸本は宿屋にでも泊るように兄の家に泊めて貰って、翌朝兄と共に磯部へ向けて発《た》った。
六十五
山地に近い温泉場での三四日の滞在はひどく疲れて行った岸本に蘇生《そせい》の思いを与えた。彼が磯部まで同伴した義雄兄よりすこし後《おく》れて東京へ引返そうとする頃には、帰国以来とかく手につかなかった自分の仕事に親しもうとする心を起した。
予《かね》て仏蘭西《フランス》から携え帰った書籍なぞの置いてある高輪の家の書斎がこうした岸本を待っていた。彼は節子と自分の間に見つけた新しい心が、その真実が、長いこと自分の考え苦しんで来た旧《ふる》い道徳とは相容《あいい》れないものであることを知って来た。人
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