ゥら運んで来た茶を一口飲んで、いそがしそうに起《た》ち上った。

        六十四

 義雄は出て行った。岸本は帰国の日以来初てと言っても可《よ》いほど寂しく静かに遊び暮せるような半日の残りの時をその二階に見つけた。彼は温泉行に誘いに来た自分の心持を兄に汲《く》んで貰《もら》うことは出来ても、黙って結婚に関した話を聞いている自分の心持を最早《もう》兄には説明することが出来ないように成った。
 手紙でも書こう。その旅行先のような気分で岸本は節子の部屋を借りに行った。義雄の部屋から一間薄暗い座敷を隔てて二階で一番明るそうな小部屋がある。窓によせて新しい机が置いてある。机の上には節子が既に用意して置いてくれたと見え、巻紙や新しい筆なぞが載せてある。
「谷中の家の二階の三畳から御便《おたよ》りいたします」と節子が引越の当時高輪へ書いてよこしたのも、その部屋だ。岸本はそこに身を置くことをめずらしく思って、独《ひと》りで机の前に坐って見た。
「節ちゃん、何にも関《かま》わずに置いて下さい。お茶だけ御馳走《ごちそう》して貰えばそれで沢山です」
 と岸本はそこへ茶道具を運んで来た節子に言った。
「叔父さんは今日から旅サ。今夜は宿賃を払ってお前の家に泊めて貰いますぜ」
 と又た岸本が半分|串談《じょうだん》のように言って笑った。
 その時、節子は新しく仕立てた唐桟《とうざん》の綿入を取出して来て岸本に見せた。それは彼女が高輪へ来る時の仕事着にと言って、わざと質素な唐桟を見立てさせて、岸本の方で彼女に買って与えたものであった。「有るもので間に合わせて置こうじゃありませんか」と嫂《あによめ》は言ったが、岸本は遠路《とおみち》を通って来る彼女のことを思って、それに同じ縞柄《しまがら》の羽織とを彼女への贈物としたのであった。
「お母さんが縫って下すったんですよ」
 と節子は言って、彼女の女らしいよろこびを分とうとした。次郎が階下《した》から上って来た。次郎は嬉しそうにそこいらを踊って歩いたり、姉の側へ寄って取縋《とりすが》ろうとしたりした。
「次郎ちゃんも好い児に成りましたね」
 と岸本が言うと、次郎は姉を引立てるようにして、叔父の見ている前で背《せい》の高い姉の手にぶらさがるようにして戯れた。
「高輪に居た時分から見ると、余程《よっぽど》これで違って来ましたよ」
 と節子は岸本に言っ
前へ 次へ
全377ページ中265ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング