@と義雄は行火の上に手を置いて、楽しそうに笑った。
「節ちゃん、好いねえ。男の人は何処《どこ》へでも身軽に行けて」と嫂は母親らしい調子で節子に言って、やがて岸本の方を見て、「ほんとに、吾家《うち》では湯治にでも随《つ》いて行きたいような人ばかりですよ」
節子は黙って自分の掌《てのひら》を眺《なが》めながら皆の話に耳を傾けていた。
「何方《どちら》にしても出掛けるのは明日の朝だぞ。俺はその方が都合がいい」と義雄が言った。
「姉さん、今夜は御厄介に成ってもよう御座んすか。久し振《ぶり》で姉さんの家にゆっくりして見ますかナ――」
「ええ。可いどころじゃない」
岸本は嫂とこんな言葉をかわして旅行先の宿屋にでも身を置いたようにホッと息をした。
「捨吉。まあ、二階で話すサ」
と言い捨てて兄が梯子段を昇って行った後でも、しばらく岸本はその部屋に居残って旅人のような気軽さを味《あじわ》おうとした。硝子戸《ガラスど》越しに射《さ》して来ている午後の日あたりを眺めると、最早《もう》何処の家でも冬籠《ふゆごも》りらしかった。狭い町中の溝《どぶ》を流れる細々とした水の音が硝子戸の直《す》ぐ外から聞えて来ていた。岸本はその部屋に居ながら、兄の家の格子戸《こうしど》の音かと聞違えるような向いの家の格子戸の音を聞くことが出来、勝手を出たり入ったりして母親を助けながら働いている節子の家庭的な日常の様子を見ることも出来た。祖母さんの若い時分からあるという古い箪笥《たんす》の上には、節子が読みさしの新約全書なぞも置いてあった。その黒い表紙のついた小形の聖書は彼女に読ませるつもりで岸本から贈ったものだ。節子は用事のないかぎり叔父の側へ来ようともしなかったが、親しみの籠《こも》った彼女の無言は人知れず岸本の方へ働いて来た。
六十三
「節ちゃん、お前の部屋を借りても可いかね」
「ええ。どうぞ」
「今日はゆっくり手紙でも書きたい」
岸本は節子にこんな話をして置いて、やがて二階に上って見た。急な梯子段はあぶない程の勾配《こうばい》で義雄の部屋の前に続いて行っている。次郎は叔父をこの谷中に迎えたことをめずらしそうにして、その梯子段を昇ったり降りたりした。甘い乳のかわりに唐辛子《とうがらし》を嘗《な》めさせられて漸《ようや》く母親の懐《ふところ》から離れたという幼い年頃の次郎を相手に、二
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