驍ルど抑えていられなくなって来た自分の精神《こころ》の動揺を沈めるためには、彼は寧《むし》ろ幻滅を期待して義雄の住居の方へ歩いて行った。
上野の動物園の裏手から折れ曲って行ったところに、ごちゃごちゃ家の建込んだ細い横町がある。何となく冬の町の空気が湿って、不忍の池に近い気持を起させるのも、稀《たま》に訪ねて行くにはめずらしかった。そこに岸本義雄とした表札が出ていた。
「まあ、叔父さん――」
思わずそこへ出て来たように声を掛けながら、節子は暗い格子戸の内から日中でも用心のために掛けてある掛金を除《はず》してくれた。
六十二
思い切って高輪を出た時から岸本には既に小旅行の気分が浮んだ。手につかない仕事を思い切るまでは苦しかったが、それも思い切ってしまって四五日の休養に出掛けると成ったら余程もう気が楽になった。帰国の日以来、心を労しつづけるばかりで、海の外から楽みの一つにして来た温泉地行すらまだ企てられなかった。そう思って、岸本は自分を慰めた。
谷中の家の方に来て見ると、この気分が余程濃くなった。暗い静かな入口の小部屋で叔父の帽子や外套《がいとう》を受取ろうとする節子を見た時にも、長火鉢《ながひばち》の置いてある階下《した》の部屋で嫂《あによめ》や節子や次郎と一緒に成った時にも、俄《にわ》かに磯部行を思い立って来たことなぞを皆に話し聞かせる時にも、彼にはもう半分旅行先のような心が起って来た。
「次郎ちゃん」
と呼ぶ義雄の声が二階の方から聞えた。
「叔父さんになア、どうぞ二階の方へいらしって下さいッて」
と復《ま》た義雄の声で。
「次郎ちゃん、父さんのところへ行ってそう言って来て下さい。叔父さんはお話がありますから、どうぞ階下《した》の方へいらしって下さいッて」
こう岸本に言われて、嫂や節子の側に遊び戯れていた次郎は二階へ通う梯子段《はしごだん》を昇ったり降りたりした。
義雄は階下へ降りて来た。めったに長火鉢の前へ坐ったことも無いような義雄は部屋の隅《すみ》にある行火《あんか》の方へ行った。この義雄を話の仲間に加えたことは、余計にその階下の部屋を女と子供だけの世界のようにして見せた。その時岸本は温泉地の方へ兄を誘いに来たことを言出した。
「稀《たま》にはそれも可《よ》かろう。や。そいつは面白かろう。俺《おれ》も一つ一緒に行ってやろう」
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