シ襟《はんえり》だ。岸本は枝折《しおり》代りに書籍の中に挾《はさ》んで置いたその女らしい贈物をも納ってしまった。彼は四五日の留守と子供等の世話とを祖母さんや久米に頼んで置いて、ぶらりと高輪の家を出た。
六十一
岸本の足は谷中の方へ向いた。彼には義雄の家で用向のために待受ける約束の人があり、保養らしい保養もしないでいるあの兄を誘って磯部《いそべ》あたりまで行って見たいという心があった。彼にはまた、久しぶりで山地に近い温泉場まで行き、榛名《はるな》妙義《みょうぎ》の山岳を汽車の窓から望み、山気に包まれた高原や深い谿谷《けいこく》に接するという楽みがあった。あの塩分の強い濁った礦泉《こうせん》の中に浸りながら、碓氷川《うすいがわ》の流れる音でも聞いて、遠い旅から疲れて帰って来た身も心をも休めたいという楽みがあった。
義雄が住む家を見に行くのは、岸本に取ってそれが二度目の時であった。上野から先はまだ池《いけ》の端《はた》を廻る電車の出来ていない頃で、岸本は冬枯の公園|側《わき》の道を義雄の家の方へ歩いて行った。節子が谷中から高輪へ通って来るのもこの道だ。そんなことが不忍《しのばず》の池の畔《ほとり》を歩いて行く彼の心を楽しくした。
別に岸本は、谷中の家に節子を見るということから起って来る彼自身だけの特別な心持を有っていた。彼は谷中の家で見る節子と、高輪の家の方で見る節子と、同じ彼女の間に非常な相違のあることを発見した。この相違はつくり勝《まさ》りのする彼女の性質をよく証拠立てた。一度彼は節子の不用意でいるところへ押掛けて、自分の家の方で見るとは別の人かと思われるほど味もうるおいも無い彼女の姿を見た。高輪で見る節子は、彼女の人となりが苦労して反《かえ》って良くなったと思われるばかりでなく、一度お産をした為に彼女の姿までが反って以前よりは好ましく成ったと思われる人である。丁度彼女のようにお産をして反って身体の余計な肉が脱《と》れてしまったようなある若い婦人もあることを、彼は他から注意されて見た場合なぞもある。谷中の家で見た節子はこの好ましさをブチコワした。彼は一種の幻滅にさえ打たれた。その時、そう思った。こんなに気が楽になるものなら、何故もっと早く谷中の方へ節子を見に来なかったろうと。寒い冷い風が幾晩もよく眠られなかった彼の顔へ来た。磯部へ旅行に出掛け
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