tは麺麭《パン》を主の肉に代《か》え葡萄酒を主の血に代えるという宗教上の儀式の言葉から意味だけを借りて来たのであった。
不自由な境涯に置かれて暗いところを歩きつづけて来たような節子の心持が悲哀《かなしみ》というものから離れたと言って見せてあるように、岸本の浸って行った歓びはそれにも勝《ま》して大きかった。彼の通越して来たところが寂しければ寂しいだけ、それだけ広々とした自由な世界に躍《おど》り入ったようなその歓びが大きかった。彼は俄《にわか》に金持にでもなった貧乏な人間に自分を譬えて見た。今まで金というものを持ったことの無い人間はどうそれを使って可《い》いかも分らなかった。彼はずっと以前に巣鴨《すがも》の監獄を出て来たある身内のものを想い起すことが出来る。その身内のものが白足袋《しろたび》穿《は》いたまま獄門の前を走り廻って、狂気したように土を踏みしめたり、娑婆《しゃば》の空気を呼吸したりしたことを想い起すことが出来る。彼の新しい歓びは、その赤い着物を脱いだ人の歓びだ。笑ったことの無い不幸な犠牲者の心からの笑顔を見た人の歓びだ。
一月《ひとつき》ばかりも寝食を忘れて、まるで茫然《ぼうぜん》自失の状態《ありさま》にあった岸本は、人がこの自分を見たら何と思うであろうと気がつくように成った。彼は一月も眠らなかったその自分に驚いた。若々しい血潮のためには胸も騒ぎ心も狂うばかりであった彼の青年時代ですら、眠られない夜が七日以上に続いたことは無かった。もし彼が二十年若かったら、これ程の精神《こころ》の激動を耐える力はなかったろうとも想って見た。終《しまい》には、彼は自分で自分の情熱を可恐《おそろ》しく思うように成った。
「これは荒びたパッションだ。静かな愛の光を浴びたものとは違う――どうかして早くこんなところを通越してしまいたい――とてもこんなことでは駄目だ」
と独《ひと》りで言って見て、ボンヤリとした自分を励まそうとした。
師走《しわす》も十日過ぎに成って岸本は小旅行を思立った。彼は節子の一人で撮《と》れている写真なぞを自分の眼に触れないところへ納《しま》ってしまった。彼女の手紙、彼女の手帳、すべて彼女のことを思わせるようなものを皆納ってしまった。彼の書籍の中からは草花の模様のある濃い色の布片《きれ》が出て来た。それは節子が日頃大切にして彼女の肌身《はだみ》につけていた
前へ
次へ
全377ページ中260ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング